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自分の心の使い方

自分の心の使い方

Ⅰ.執筆の前に

1.この文章の趣旨
この文章は、1998年12月から私のウェブページで公開してきたアダルトチルドレンについての考察を、単にアダルトチルドレンの解説をするだけではなく、神経症的性質の解消や生活の向上など、より全体に目を向けて考察を試みたものである。

2.私が書く意味
私は、早熟ではあったが中学生の頃から(もっと前かもしれない)、通俗哲学や宗教や心理学の本などを読んできた。後で触れるが、家族の問題や、自分の登校拒否など子供ながらに「自分」というものを考えざるをえなかった。
最初は読んだところで、どの程度理解できていたかはあやしいものである。しかし、そんな子供がいわゆる「大人の難しい本」を手に取ったことに意味があったと思う。何度か繰り返し読むうちに、年齢が高くなったこともあって意味がわかってきた。そうこうして6年だか7年だかの間、さまざまな本を読み、知識が蓄積され、経験も増えてきた。
最近になって、その知識と経験とが一本の線につながってきたように思えた。今から書いていくことは、見えてきた一本の線をより凝視し、強固なものにしていく試みである。いわば、学習のまとめノートのようなものかもしれない。

3.私小説とすべきか
私はこの文章を書くにあたって、どのように構成するか考えた。まず思い立ったのは、私にあった実際の出来事を先に挙げ、それを後で解説し、考察しようとする方法であった。私小説のようにである。この方法は、ひとつの王道だろうと思った。私が今まで読んできた心理学や、自己啓発を目的にした通俗哲学の類の本は、おおよそこの方法をとっていたからである。
しかし、今回はこの方法をとらないことにした。なぜなら、あまりに私のプライバシーを明かしてしまいかねないからだ。昔の話ならしてもよいと思ったが、最近の話となるとまだ自分の中で消化しきれておらず、明かす決心がつかなかった。また、私小説的な考察は、自己分析にはまるきらいがあり、後で述べるQOL的日常没頭にそぐわないと思った。
そこで、私自身の出来事も多少は織り込みながら、一般的に言われる神経症などの症状と関連付けて話を進めていきたい。この方が、より普遍的な価値を高めることもできるだろう。

Ⅱ.神経症的性質の解消とQOL

私はこの文章の中で、神経症的態度をやめることや、生活の向上を求める上で必要な心構えのようなものを見つけ出そうとしている。まずは、問題となっている神経症的な性質や態度とはどんなものかを知っておくことは重要だろう。この章では冒頭でアダルトチルドレンや回避性人格障害といった、最近多いといわれる問題に触れる。続いて、心理学や哲学の成果に助けを求めつつ、神経症的性質を解消する術を考えてみる。

1.アダルトチルドレン
アダルトチルドレンは、もともとACOA(アダルト・チルドレン・オブ・アルコホリック)の略で、家族(主に親)のアルコール依存症のために、子供らしい体験をできずに成長したアルコール依存症患者の子供ということである。現在ではACOD(アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナルフファミリー)といって、アルコール依存症以外の問題によってACOAと同じような環境になった場合も、アダルトチルドレンといわれる。
アダルトチルドレンは自己不完全感が強く、自尊心を持てず、自虐的態度をとりやすい。アダルトチルドレンは、決して神経症や精神病の病名ではなく、以上に挙げた生育環境と、自虐的態度などの心理的な性質を持つ人という概念であることに注意したい。ただ、神経症や精神病に陥りやすいことも事実であろう。
また、アダルトチルドレンは連続性を持っている。父がアルコール依存症で、子供がアダルトチルドレンでありかつ、アルコール依存症になったというパターンである。結局、子供の子供(最初の父からみて孫)もアダルトチルドレンということもある。アダルトチルドレンのアルコール依存症になる確率は50%という話もある。この辺は「共依存」がキーワードになろう。アルコール依存症患者を夫に持つ妻が、表面では治ってほしいと願いながらも、実は、夫のアルコール依存のために家庭内で妻が握った権力を離したくないために、治ってほしくないと思っているケースもある。また、妻が自尊心欠乏であったが、夫のアルコール依存という弱さを妻が助けることで自尊心を満たしているということもあるらしい。アルコール依存症が本人だけでなく、家族の病といわれる所以であろう。

A.アダルトチルドレンについて
この節では、以前から公開していた「アダルトチルドレンについて」を、ほぼ原文そのままの形で引用する。

(1)ACってナニ?
あなたが普段の生活で、何か(他人との間だけでなく、自分の中だけでも)トラブルを起こしやすかったり、人が離れていくような気持ちになることはありませんか?それは多分、自分でそう思い込んでいたり、そう思い込みやすい性質(性格)だからではないでしょうか。人はそんな簡単に離れていくものなのでしょうか。
おそらくそれは「人から認められたがっている」あなたの生き方なのではないでしょうか。アダルトチルドレンは、そういう生き方をしてしまう、生き方の上手くない人のことだと思います。
「ACってナニ?」では、自分がアダルトチルドレンではないかと思った人のために、アダルトチルドレンの概要を紹介しています。

1.ストーリー
私の場合、ACを知ったのはつい最近です。普段の生活の中で問題(友達との人間関係でした。今も完全に解決したとは言えません…)を抱えて、誰に相談するでもなく心理学の類の本を読んでいたとき、上記の一般的な説明を目にして、自分に当てはまる、しっくりくると感じました。

これをきっかけにさまざまなACに関する本を読んだのですが、そこで説明されている事柄に、またうなづいたわけです。誰もそうだとは言いませんでしたが、今から思うと私の父はアルコール依存症だったと思います(今は離婚し、私は母につきました)。本にあるような暴力沙汰はありませんでしたが、当時小学生だった私は、ストレスを感じていたと思います。私は学校での成績が良かったので、家庭では英雄(参照=斎藤学・著「アダルト・チルドレンと家族」学陽書房)でした。その一方で、相談相手といえるかはわかりませんが、母の話(父の愚痴っぽい話もあったでしょう)は良く聞いていたと思いますし、事実、母に離婚を促したのは当時中学校1年生だった私でした。しかし、その母も共依存(これもACを理解するキーワード)ではないかという気すらします。

つい最近聞いた話ですが、私の父方の祖父(私が生まれたときにはもういませんでしたので面識はありませんが)もアルコール依存症だったそうです。そう思うと、父もACだったのかもしれません。たしかに、父の生きづらさを思わせるような姿は何度も見ました。アルコール依存症が患者だけではなく、家庭の病気であるといわれるように、ACも親から子へと受け継がれがちです。子は親の姿を見ながら成長するわけですし、人格を形成するのですから、必然を感じます。一方で、それを誰かが断ち切らねばならないのも事実でしょう。

「私は本当にACなのでしょうか」。今まで書いてきたことも、もしかして本に影響されただけかもしれない。私の違和感は本の影響で強調されただけなんでしょうか…。良くわからなくなることがあります。でも、今まで書いてきたことは、できるだけ事実を書こうと努力したものです。

2.ACのアウトライン
1. 周囲が期待しているように振る舞おうとする
2. 何もしない完璧主義者である
3. 尊大で誇大的な考え(や妄想)を抱いている
4. 「NO」が言えない
5. しがみつきと愛情を混同する
6. 被害妄想におちいりやすい
7. 表情に乏しい
8. 楽しめない、遊べない
9. フリをする
10. 環境の変化を嫌う
11. 他人に承認されることを渇望し、さびしがる
12. 自己処罰に嗜癖している
13. 抑うつ的で無力感を訴える、その一方で心身症や嗜癖行動に走りやすい
14. 離人感がともないやすい

普段の生活の中で、上記のような感情や行動を、自分が取ることがよくありませんか。上記のうち、いくつあてはまれば…なんてことは言いません。でも、うなづける。何か生きづらい、まわりと違和感を感じる…。もしそうならば「自分はACではないか」ということを考えてみてください。

ACとは、アダルトチャイルド(Adult Child)もしくはアダルトチルドレン(Adult Children)の略です。ACは一般的に、以下のように説明されています。

アルコール依存症などの嗜癖問題を持つ家庭では、親の問題行動のため、子供が幼いうちから冷静に、大人ぶった役割を果たすようになる。そういう子は、子供らしい感情を体験しないまま大人になるため、心に弱い面を持ち、自らも問題行動を起こしやすい。

ACのうち、親などがアルコール依存症の場合、ACOA(アダルトチルドレン・オブ・アルコホリック)といわれ、最も最初に定義されました。しかし、親がアルコール依存症患者でなくても、何らかの問題のために同じような家庭環境になることもあります。これが原因のACは、ACOD(アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクションファミリー、機能不完全家庭)といわれます。このように、ACはさまざまな問題を抱えた家庭で育ったために、何らかの生きづらさを感じるような性質を持った人のことといえます。

引用
斎藤学・著「アダルト・チルドレンと家族」学陽書房
(冒頭に挙げたACの特徴的な感情・行動)
特集アスペクト10「あなたも神経症」アスペクト
(ACの一般的な説明)

(2)ACのステップ
「ACのステップ」は、「ACってナニ?」の発展編として、AC特有の生きづらさの解消を考察したものです。
筆者が「自分はACだ」と感じ、しばらくしてから書いた「ACってナニ?」の初公開が1998年12月。8ヶ月が経った今、落ち着いた視点でACを見つめなおし、成長する方法を書いています。少しだけ参考になることもあるかと思います。

どうやら、自分はAC(アダルトチルドレン)かもしれない。じゃ、どうすればいいのか。この生き方下手をどうやって解消したら良いのか?ちょっと落ち込んだ時などに「こうすれば立ち直れる」ような方法を提案したいと思います。私の経験的方法ですので、これが正しいというような保証はありません。本当に重い症状なら、専門家に相談してみる方が良いでしょう。

1.対処的方法
ちょっと落ち込んだ時、寂しい気持ちになった時、そんな時に「私はACだから」と考えてみましょう。なんだか逃げのような気になってしまいますが、もともとACは自分に厳しくあたりすぎるきらいがあり(自虐的態度をとりやすい)、少しだけ自分にやさしくなってあげたほうが良いようです。「ACはこういう感情を持ちやすいんだ」と思うと、少し冷静になれます。
だから、自分がACだと思ったら、ACの特徴的性質を知っておいたほうが良い。症状が重くなければ随分、楽になれます。

2.根本的解決できる?
ACの根本的解決法として決定的なものがあるかというと、どうなんでしょうね。「嘆き」と「承認」という段階を必要とする方法が良く紹介されています。そもそもACになる原因として「承認の不足」があるわけですから、グループになってみんなで承認してあげるわけですね。その前段階として「嘆き」によって過去の自分と周りの関係を正しく認識する。そんなところでしょうか。
残念なことですが、何にせよ私に提案できることはあまりありません。そもそもACを根本的に解決することは可能なのでしょうか?例えば自虐的な反応をしないようにするとか、そういうことはできると思います。「自分の感情を自分で決める」ことは、人間に与えられている絶対の自由だから。「自分がACだということを土台にして生きること」。これが数少ない現実的提案だと思いますが、いかがなものでしょうか。

3.心の中の天秤
たとえ話をします。「心のなかに天秤があるとする。大きな感情のゆれがあると天秤は左右に振れる」。
その時、小さな出来事で過大なほどに左右に大きく振れやすいのがACの性質だと考えることはできませんか?ACは極端です。同じような出来事があったとして、バランス良く適度に左右に振れる人は精神的な安定感を持った人ではないでしょうか。言葉をかえれば「中庸」。心の真ん中に心棒を持つことかもしれない。

最後に、もう一つだけ引用します。

アダルト・チルドレンは診断のための医学用語でもなければ、人を誹謗中傷するためのレッテルでもありません。自らの生きにくさの理由を自分なりに理解しようと努める人がたどりつく、ひとつの自覚です。人はこの自覚を用いて、より有効で自由な自己をつくり、その自己を保護するのです。
(引用)斎藤学・著「アダルト・チルドレンと家族」学陽書房

2.人格障害
ここから少し、人格障害の話をする。本当の人格障害は専門医の治療を必要とする神経症だが、普通の人間なら多少は人格障害などの神経症的な性質を持っているものでいる。もちろんそれは病気などではなく正常なことであるが、その性質がどういうものかを知るために、人格障害の種類や特徴を知ることは有用ではなかろうか。

A.回避性人格障害
回避性人格障害とは、全米精神医学会の診断基準では、対人関係に極めて敏感で、自分がどう評価されるかということをいつも心配し、そのために人を避けがちな人格障害のことを指す。
次の七つの診断基準が挙げられている。
1. 批判や是認されないこと、さらに拒否されることによって傷つきやすく、重要な対人関係が関与する仕事や活動の障害となる
2. 好かれているという確信がないと、人と接しようとしない
3. 恥ずかしがったり、笑われるのを恐れるため、親しい人以外には萎縮する
4. 社会場面で批判されたり、拒絶されたりするのではないかと過度に心配する
5. 自己不全感があるため、新しい対人関係に加わろうとしない
6. 自分は社会的にだめな人間とみたり、人を魅きつけることができず、他人より劣っているとみている
7. 危険なことや、新しいことをやろうとしても、それをすることで困惑するだろうと考え、これらをいつも避けようとする
このような七つの項目が、回避性人格障害の特徴とされており、このうち四つ、ないしそれ以上の項目が該当すれば、この回避性人格障害の診断が可能となっている。
実際、日本では登校拒否、出社拒否、または閉じこもりの大半は、このような回避性人格障害である。また神経性食欲不振症(拒食症)にみられる人格障害で多いのは、強迫性人格障害と回避性人格障害であり、ともにおよそ一〇%という報告がある。
(町沢静夫著「飛べないトンボの心理療法」から引用)

以上の文章を読んで「私のことだ」と思った人は、多いだろう。程度の判別が難しいが、場合によっては回避性人格障害と診断されてもおかしくない。

(1)ストーリー
私は中学3年になってからは、ほとんど学校には行っていない。いわゆる不登校であり、登校拒否である(不登校と登校拒否の使い分けは難しいところだ。私は最近になって、理由や態度はどうあれ自発的に学校に行かなくなったのだから、登校拒否でいいと思っている。登校拒否当時は不登校だと言っていたが…)。理由はないので困る。いや、おそらく何らかの理由があったのだと思うが、説明できなかった。ただ漠然と、学校に行きたくないと思った。もともと幼稚園の頃から、そういうところは好きではなかった。小学校の頃も1週間か10日くらいの小さな登校拒否を起こしたし、中学校では本格的な登校拒否になる前にも、月に数日は必ず休んでいた。
学校を休み始めた最初の日は、おそらく嫌いな授業があるとかで休んだ。ここまでは単なるズル休みである。次の日から、少しずつ神経症的な症状が出てくる。私は他人の目が怖かったのだと思う。ズル休みした罪悪感もあっただろうが、なぜか怖かった。あとは、この繰り返しだ。繰り返すたびに恐怖感も増していった。
元々、小・中学生の頃は神経症的な性質の強い子だった。幼稚園の頃から小学校の低学年の頃は、人と遊ばなかった。休み時間が苦痛で仕方なかった。特に長い昼休みなどは、教室にじっとしているにも、やはり他人の目が怖かったので、学校内を歩いていた。今から外に遊びに行くんですよ、用事があるんですよといった素振りで。こういった時期が幼稚園の頃から合わせて4~5年ほど続いた。3年生の頃だっただろうか「外で遊ぼう」と声をかけられて、ほとんど初めて同級生と遊んだ。少しづつ友達ができた。しかし、なぜか打ち解けた感は少なかった。学校の成績がよかったので、学校には行った。しかし、おそらく嫌われているのだろうなと、うすうす思っていたのも事実だ。

しかしながら昨今の傷つくのが恐い、というのは、今までの時代に比べてはるかにその度合いが激しいのである。ほんのわずかな言葉、ほんのわずかな身振りによって、またたく間に傷ついてしまう。その結果、出社拒否や登校拒否になったり、あるいはまた神経症、うつ病にいたることさえあって、私たち精神科医の方が驚いてしまうことが多い。
(中略)
また、子供の場合は、学校の仲間が自分と一緒に遊ぼうといってくれなかった、あるいは顔を合わせたときににこっとしてくれなかった、さらにまた学校の先生が自分に声をかけてくれなかった、ということで、いとも簡単に登校拒否が起こってしまう。こういうことは、今やありふれたことである。
(町沢静夫著「「こころの居心地」がよくなる心理学」から引用)

この文章を読んだとき、自分のことだなと思った。

要は彼らは人との接触、あるいは人とのつき合い方、対人関係が充分に学びきれず、また人と遊ぶことに慣れていないために、自分と他人との間に行き交う感情に対してコントロールが行き渡らない。
(同書から引用)

とのことである。私の場合、アダルトチルドレンの影響があることは違いないと思うが、これもまた然りである。
この本に出会ったのはつい最近のことであり、残念ながら登校拒否をしている最中ではなかった。私が今になっても、やはりこういった本に興味を持ち、手が伸びるのは、現在の私の生活が登校拒否の頃(さらにアダルトチルドレンとしての性質)を多少は引きずっているからであろう。私が「執筆の前に」でこの文章が私小説的になるのを避けたのは、そのためである。現代では純文学好きは神経症的性質を持ちやすいという報告もある。登校拒否の頃の神経症的態度の大部分をどうやって解消して今に至っているのかは、追々の文章で浮かび上がることだろう。

B.その他の人格障害
今までは最近特に多いとされている回避性人格障害について考察した。この項目では、その他の人格障害をアメリカ精神医学会の「診断と統計のためのマニュアル第4版」の分類にそって見ていく。

「診断と統計のためのマニュアル第4版」の分類は、精神医学的症状による分類であるアクシス1と、人格障害による分類であるアクシス2の2つがあり、ここで紹介するアクシス2は、人格の共通点によりクラスターAからクラスターCまでの3つに分類されている。

(1)奇妙で風変わりな人格群
まず、クラスターAの「奇妙で風変わりな人格群」を紹介する。クラスターAには、以下の3つの人格障害が入る。
1. 妄想性人格障害
2. 分裂病質人格障害
3. 分裂病型人格障害
このうち、妄想性人格障害は、他人のすることに悪意があると思い込む人格障害である。

(2)感情の混乱を特徴とする人格群
続いてクラスターBの「感情の混乱を特徴とする人格群」には、以下の4つが含まれる。
1. 反社会性人格障害
2. 境界性人格障害(ボーダーライン)
3. 演技性人格障害
4. 自己愛性人格障害

(3)不安が強いことが特徴的な人格群
最後にクラスターCの「不安が強いことが特徴的な人格群」の3つの人格を紹介する。
1. 回避性人格障害
2. 依存性人格障害
3. 強迫性人格障害
先に挙げた回避性人格障害は、ここに含まれている。

3.心理学の知識
この文章で精神分析などの心理学の知識にまで触れるのは、いささか行き過ぎているような気がしないではない。しかし、私が今まで読んできた「生き方」に関する本の中で、最も説得力のあったものは心理学者によるものであった。心理学者による本は臨床例を取り上げることが多く、それだけ説得力があったということもあるが、それよりも理論をつけて説明することができることが重要だ。また、理論にそぐわない人間くさい問題もあるだろうが、そこに答えを与えることができるのも臨床経験が豊富な心理学者であった。
私は、心理学の知識をつけることは意義のあることだと考えている。なぜなら、生きていく中で生じる人間的な問題について、心理学の知識を使うことで自分を理解することが多少なりとも容易になると思うからだ。

A.心理学の体系
一口に心理学といっても、研究の対象によってさまざまな分類がある。感覚がどのように伝わるかを解き明かす認知心理学や感覚心理学、発達を対象にする発達心理学や教育心理学、社会的な問題を対象にする社会心理学、また心理学を実社会に生かす産業心理学や色彩心理学などあるが、ここで取り上げるのは心の問題にアプローチする精神分析である。
精神分析は人間の心を解明するものである。また、神経症や精神病の治療にも使われており医療的な意味も持っている。精神分析(あるいは深層心理学)はフロイトが創始したものだが、分析心理学のユングや個人心理学のアドラーなどにも派生している。

B.フロイトの精神分析
精神分析はオーストリアの精神医学者フロイトによって創始された。フロイトの最大の功績は「無意識」の発見だとされるが、そのメカニズムを見てみよう。
まず、大人の感情の持ち方を決めるのは幼児期の体験が大きなウエイトを占めていると考える。幼児期の対人関係-親子間の接し方や、愛情関係-は「原型」となり、大人になった後の対人関係は幼児期にできた原型の「反復」つまりコピーとして、今、目の前にいる人に「転移」しているだけだ。
また、神経症や精神病は反復が強迫観念的になり「反復強迫」になっている。だから神経症や精神病の解消には原型となっている幼児期の体験を再認識する必要がある。しかし、反復強迫に陥るようなもとになった体験は、思い出したくないようなものが多く、心の中で「抑圧」された状態になり、すぐには思い出せない。この抑圧された世界を「無意識」の世界と呼び、普段の生活で常に感じている「意識」や、単に忘れているだけの「前意識」と区別されている。考え方によっては無意識の世界は地球のマグマのようなものであり、当然、普段は見えない。無意識のマグマは常にうごめいていて、外(=意識の世界)に出ようとしている。しかし、無意識と意識の間には検閲があるため簡単には外に出られず、時には形を変えて検閲を通過するものもあるのだ。
精神分析では病因となっている原型を無意識の世界から意識の世界、つまり明るみに出すことを目的としていて、そのためにさまざまな技法を使う。基本となるのはカウンセリングであるが、詳しくはここでは触れない。
後にフロイトは「無意識・前意識・意識」から、「超自我・自我・エス」に考え直している。超自我は良心であり、エスは快楽を追求する本能的部分。そして超自我とエスのバランスを取って社会生活に適応させているのが自我である。

また、フロイトは心の病は幼児期の発達過程に原因があるとして、エディプスコンプレックスを発見している。エディプスコンプレックスは人の心に普遍的に存在する心理葛藤であり、子供が両親に対して抱く愛および憎悪の欲望の総称である。また、発達過程を分類し、その時期に過剰な満足や不満を感じると「固着」が起こり、何らかの心理的な問題を抱えるとしている。

1. 口唇期(生まれてから1歳半くらいまで)
この時期に固着が起きると依存心が強く、タバコや酒など口唇の活動が目立つ。
2. 肛門期(1歳半から3、4歳)
この時期に固着が起きると几帳面、倹約家、頑固であり、強迫神経症にもつながる。
3. 男根期(3、4歳から5、6歳)
この時期は男女の区別を自覚する頃であり、この時期の固着は競争心や虚栄心など攻撃的な性格になる。

C.精神分析のゴール
精神分析による心理療法において、どこにゴールを定めるかという問題がある。たとえば、神経症患者が精神分析家のもとに訪れて治療契約を結ぶ。何度かの精神分析で神経症は完治したとする。しかし、それは神経症の症状がなくなっただけであり、さらに精神分析を重ねれば神経症の病因となった深層心理に到達でき抜本的な解決を図れることがある。この時、症状の完治によって治療を終えるか、病因の発見を待つかという選択を迫られる。
病因の発見には何年もの時間がかかることが多く、治療の長期化は避けられない。これは、患者の日常生活を脅かし、精神分析家にとっては限りある時間を一人の患者にばかりかけてはいられないので、困った問題となる。また、治療の長期化は患者と精神分析家の依存関係を作ってしまうことがあり、思ったほどの治療効果があがらなくなってしまうこともあるようだ。最近の趨勢は「短期力動心理療法」と呼ばれる、短期間の精神分析であり、神経症の症状の完治をもってよしとする。症状がなくなれば詳しい病因にはこだわらない(もちろん病因をある程度はつかまなければ治療はできないだろうが)という立場は、私が後で取り上げるQOL(Quality Of Lif)による生活の向上を重視する考え方と同じものである。事実、QOLが向上することによって軽度の神経症を解消する実績は多い。楽しいことによるウサ晴らしでストレスを解消することも、一種のQOL向上による心理的な問題を解決する例として挙げることができるだろう。

4.心棒を作る
これまで述べてきた神経症的性質は、すべて対人関係によるものである。人は一人で生きるものではない。どんな生活をしようと、少なからず人に接しながら生きていくものである。さらに人というものはよく分からないものであり、分からないものと付き合わなければならないのだから、なおさら大変だ。
アダルトチルドレンは親と子という対人関係から生まれる問題であり、回避性人格障害は誰とはいわぬ自分以外のすべての人との対人関係の問題である。大抵において、神経症的な問題は自分一人で出来るものではないのだ。
ユングに「人格とは人の一生をかけて作り上げるもの」という言葉があるが、大勢の人の中で唯一の自分を示すものを人格とすれば、一生をかけて大勢の他人と関係を持って作り上げていくものとなる。

私が中学生の頃、ちょうど登校拒否時に読んで感銘を受けた、書名は忘れてしまったのだが渡部昇一氏の本があった。たしか青春出版社から出た新書だったと思うが、残念ながら手元にない。その本には知的生活を志すための、対人関係などが書いてあったと思う。そこに「自分の心に心棒を作る」という一節があった。また、私がもっとも強い影響を受けた本は「自分のための人生」、「どう生きるか、自分の人生!」、「もっと大きく、自分の人生!」というアメリカの精神分析学者であるウェイン・W・ダイアーのものである。渡部昇一氏の訳で三笠書房から知的生き方文庫として出ている。
今挙げた4冊の本は、すべてストア哲学に強い影響を受けている。渡部氏著の本にある「心棒を作る」考え方は、ダイアーによる3冊にも共通している部分が多い。私が登校拒否時の神経症的な態度から脱することができ、今までの人格形成に大きく影響している考え方といって間違いない。

A.ストア哲学の知識
ストア哲学は、紀元前4世紀末にゼノンによって創始されたギリシャ哲学の一派。自然に従う生活が幸福であるという道徳観に立っており、禁欲と克己による理性に従い、賢者の自足的生活を理想とした。これが一般的な説明である。私にとって通俗でない、生粋の哲学は「ソフィーの世界」に端を発しているので、アルベルトの手紙を少し引用する。

ストア派はまた、たとえば病気や死などのすべての自然過程は自然の普遍の法則にしたがっている、ともとなえた。だから人間は、自分の運命を受け入れる術を学ばなければならない。ストア派はなにごとも偶然には起こらない、と考えた。すべては必然なのだから、つらい運命が扉をたたいたら、じたばたしたり嘆いたりしてもなんにもならない。また、幸せな生活条件も落ち着いて受け入れるべきだ。
(ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳「ソフィーの世界」から引用)

さて、紀元前にまで遡るストア哲学を、さらに現代に受け入れられやすくしたのがダイアーの功績だといえる。特にストア哲学の影響を受けているのが「どう生きるか、自分の人生!」であり、その原題を “Pulling Your Own Strings” という。「自分を操る糸は自分で引け」という意味で、これは当初の私のウェブページの冒頭に掲げてあったものだ。
「自分を操る糸は自分で引け」。人間の悩みの原因は数限りなく、明日の天気が晴れかというだけで悩むこともある。先に述べたように、神経症的な態度の原因の多くが対人関係によるものであるから、やはり他人が自分に与える影響は非常に大きい。しかし、明日の天気は明日にしか分からず、他人の本当の気持ちははかりしれない。そんなものに自分の自尊心や健全な生活を任せてしまうと、大変な目にあうのは自明の解であろう。とはいえ、他人の感情に自分の自尊心を任せてしまう人がいかに多いか。そういう人の多くが神経症的な感情に悩むことになるのだ。ひどくなると、人格障害に至ることも少なくない。
本当に自分の自尊心を任せることができ、自分の自由になるものが一つだけある。それが自分の思考であり、感情なのだ。例えば、普通なら怒るだろうなという出来事が降りかかったとして、それで本当に怒るかは自分で決めることができるはずなのだ。喜怒哀楽は偶発的に起きるものだとか、他人から与えられるものだと思っているとしたら、神経症に片足をかけていると思うべきだろう。大切なのは、本当に自由になるのは自分の心だけであり、だからこそ自分の心は完全に自分で支配することが必要だということである。これがまさしく「心棒」なのだと思う。

B.自分の心棒を作る方法
私がこの節で述べたいことを的確に示した文章があったので引用する。

どんなことにも動じない“自分の心棒”を作る法
一人一人の考え方こそが、その人自身を作り出したものであり、その人の責任なのだ。そして、世界中の誰も、どんなものも、どんな力も、人が考えたくないことを考えさせることはできないのだ。あなたの自由の一隅は誰も奪うことはできず、たとえ他人が無理にあなたを奴隷にしても、心の中の考え方を選ぶ能力は、変わらずにあるのだ。
感情も行動もすべて考えることから直接起こるのだと一度理解すれば、個人的な問題や心理的な問題に取り組むことは、その消極的な感情や自滅的な行為の基本である考え方にこそ取り組むことなのだと、自然に理解されるであろう。
もし、自分の考え方を動かせるのは自分だけなのだという確信をもち、無限界に生きる道は新しい異なった考え方を今学ぶことにあると認識し、また、自分の態度、つまり世の中への接し方は、自分の考え方の反映したものに過ぎないということが理解でき、どんな状態のもとでも、自分の態度は自分で決めるのだと決意したならば、その時こそ、無限界の考え方へとつづく橋への第一歩を踏み出したことなのである。
(ウェイン・W・ダイアー著、渡部昇一訳「もっと大きく、自分の人生!」から引用)

この文章を読むと、先に挙げたソフィーの世界のストア哲学の説明とほぼ同じ内容であり、ダイアーがストア哲学の真髄を継承していることが分かる。ここで挙げている3冊の著書以後もダイアーは、現代のストア哲学をさらに発展させていくのである。

C.「しかたない」と「まあいいか」
私が中学生の頃、よく「しかたない」という言葉を使っていた。何か出来ないことや、人に「こうしなさい」と言われて、自分がやりたくないと思ったときなどに「しかたない」という言葉が出てきた。
最近は「まあいいか」と思うことが多いような気がする。どちらの言葉も、なげやりでやる気のないような言葉ではある。しかし、「しかたない」と「まあいいか」は、まったく違う言葉だと思う。それは、「しかたない」は外的要件に理由を求めており、「まあいいか」は自分が判断してあきらめている。分かりにくければ、「なになにだから」という言葉を前につけてみるといい。「なになにだから、しかたない」。これだとどうも言い訳がましく聞こえないだろうか。一方「なになにだから、まあいいか」。これも誉められた言いぐさではないが「なになに」には正当な理由が求められるだろう。
わずかな言葉遣いの違いであるが、無意識にでも自分の考えを大切にする癖がついてきたような気がする。

D.主ある家には~徒然草
このごろ古典を読んでみたいと思っていたので、角川mini文庫のこれだけは読みたい日本の古典シリーズから「徒然草」を買って読んでみた。実は、徒然草についてはもっと後で紹介するはずだったのだが、あまりに含蓄に富み、この節の内容に合っている話があったので、ここで紹介することにした。

徒然草・原文
主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来ることなし。主なき所には、道行き人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊などいふ、けしからぬ形も現るるものなり。また、鏡には色形なき故に、よろづの影来たりて映る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。
虚空よくものを容る。我らが心に念々のほしきままに来たり浮かぶも、心といふもののなきにやあらむ。心に主あらましかば、胸の内にそこばくのことは入り来たらざらまし。

大雑把に訳せば、主人のいる家には無関係な人間が入ってくることはなく、主人のいない家には無関係な人間が立ち入り、きつねやふくろうですら入り浸る。鏡もまた色がないから何でも映るが、色つきの鏡なら映らない。それと同じで、人の心も主体性を持っていれば雑念に振り回されることはない、ということだ。
これはまさしく、この節の主題である「心棒」の話である。人の心に主体性を持つことは、著者の言葉をそのまま借りれば「心の主」であり、その主は当然、自分自身がなるべきなのだ。逆に主なき心は神経症的な感情に悩む人のことだ。主(心棒)を持てない人の心には、さまざまな雑念(妄想や、思い込みなど有害な感情)が入り浸り、健全な精神生活に支障をきたすことになろう。

徒然草の著者である兼好は鎌倉時代の人であり、ストア哲学の創始者であるゼノンに至っては紀元前4世紀の人だ。この偉大なる前人の考えが、現代に充分に通用する事柄であることは恐れ入る。それはまた人が幸福に生きるための方法として普遍的なものであり、この文章で展開している考え方の保証となる。

5.神経症を解消するQOL
ここまで私は神経症的な態度や感情を列挙し、精神分析学にも触れてから、「自分の心棒を作ること」が精神的に健全な生活のための優れた方法であり、心構えであることを見出してきた。この節ではさらに展開し、主体的な心を持った上でいかに日常を生きるべきかを考察したい。これは神経症的な態度や感情を解消するための、より具体的な方法を示すことになるはずだ。

A.ストーリー
私が中学時代に登校拒否をしていたことは、既に何度も触れた。結局、中学3年の時に休み始めてからは、その後一度も学校に行くことはなく、卒業証書は校長室で一人でもらった。
しかし、その頃になると私の神経症的な態度はずいぶん解消していたのだ。たしかに相変わらず学校には行かなかったし、学校に行くとすれば同級生をはじめとする他人の目が恐かったに違いない。それでも神経症的な態度が解消したと感じたのは、新聞配達のアルバイトを始めたためである。まずは家の外に出ることで、それまで半年ほど続いた閉じこもりが解消された。またどんな日でも新聞を配らなければならない責任感で、精神的に強くなったと思う。一方で母親が、私に学校に行くことを強制しないようになったことも挙げておかなければならない。
17歳の夏に大学入学資格検定を取得してからは、アルバイト先を新聞配達からフードサービスに変えた。新しいアルバイト先では、同年代の人との接点ができ、少しづつ対人関係を学ぶことになった。また、時に店長に反発したことは、ダイアーの著書で学んだ自分の意見を大事にする姿勢を実際に示したといえる。

この体験で分かることは、いかに外部との接触が必要かということである。半年もの閉じこもりは、精神的に不健全で暗い期間だったと言わざるを得ない。それが徐々に外部との接触を増やすことで薄日が差し、やがて普通の社会的生活に復帰できたのである。
さらにいえば、閉じこもり期間は自分を考えつづけた期間であった。さまざまな生き方に関する本を、最も多く読んだ期間でもある。そこで得た知識を後に実体験し理解を深めることになったのだから、閉じこもり期間のすべてを無駄といいきることはできない。しかし、人は大勢の他人と過ごす何でもない日常生活の中で、最も成長することができるのだろう。人と接さずにはいられない日常生活を生きることができるようになったときには、すでに神経症的な態度や感情は消えてなくなっていることだろう。

B.日常生活に没頭せよ
さて、ここまでの考察で「大勢の中で過ごす何気ない日常生活こそが神経症的な態度や感情を解消し、自己を成長させる」ことが分かってきた。ここで一つ引用する。

しかし、もっと重要なことは、禅は無我の境地に達するために、世の中から逃げ出すことにしているのに対し、無限界人間は同じ境地に達するために、世の中にもっと没入しようとすることであろう。
これは、禅の瞑想によって得られる清新な気分、心の平和が、世の中へはもって帰れないと言うのではない。もちろん、もち帰れるし、また健全な結果を生んでいる。しかし、禅は悟りへ通じる橋であるにすぎず、われわれが達成したいと願う哲学-そのすばらしい境地のまま、また世の中で暮らすこと-にはほど遠いと私は考えている。「従事」-この概念は、実存主義者たちの思想から分娩の現象にまで、豊かに広がっている。
(中略)
従事とは、気がつかないうちに現在に生きていることを意味するのだ。
(ウェイン・W・ダイアー著、渡部昇一訳「もっと大きく、自分の人生!」から引用)

私は人生を楽しく、精神生活を健全にするために「世の中にもっと没入する」ことを選択したのだ。日常生活を重要視するのは、世の中(日常)に没頭することにこそ意味があると感じたためである。同書でダイアーは「現在を生きているということが、感情の混乱や抑圧に対する、最も強力な解毒剤なのである」とも述べている。
また「気がつかないうちに現在に生きている」という従事の考え方は、悟りを得ようとする求道者が、「悟りを得ようと必死になっているときには悟れず、悟らなければならないことを忘れたときに悟ることができる」という禅宗での話に似ていることに注目しなければなるまい。
漫画「ピーナッツ」に、このような話がある。スヌーピーは犬小屋で何か考え事をしている。「ぼくの人生に意味なんてない」、「何もかもむなしく思える」とため息をつきながら。その時、チャーリー・ブラウンがドッグフードを持ってきた。スヌーピーは一言、「わー!意味があった!!」。漫画の中の話ではあるが、なかなか侮ってはいけない。人生について考えるのは、実に高尚なことである。しかしドッグフードという日常生活が現れて、それで心が満たされたのだ。

私は今、家に閉じこもって人生に悩んでいる人がいるとすれば、「日常生活に戻って楽しみなさい」と言いたい。大抵において人生の思い悩むことは大した成果をもたらすことはなく、日常生活に没頭することで悩む暇はなくなり、外部との接触によって思わぬ成果をもたらすことになろう。

C.日常生活の品質
癌ですら人生の質、つまりQOLを高めることによって、進行を止めることができるのである。まして心の病において、その重要性はいうまでもない。これはなにも宗教がかったり、あるいは神秘的な考えではない。やはり心の喜び、体の喜びというのは、体の抵抗力を高め、その人の一番よき薬となっていることを証明するものである。
ところで本章は“待っているだけの人生”では何も変わらない、ということで、行動の大切さを述べてきた。確かに好奇心や遊び、創造性といったものが充分に備わった人は、積極的に、そして能動的に生きていける人たちである。
しかしこのような人たちも、やみくもに前に進んだり、ひたすら積極的に生きれば人生が楽しいのかというと、必ずしもそうではない。やはり待つべきときには充分待てる力の持ち主こそ、本当の意味で能動的な人ではないだろうか。
(町沢静夫著「「こころの居心地」がよくなる心理学」から引用)

私はここまで日常生活の重要性を述べてきた。日常生活に没頭することこそ、神経症的な態度や感情を解消する近道である。しかし、ただ日常生活に没頭せよといっても、具体的にどう振る舞うのかはよく分からない。
再三述べている、自分の心棒を作り心に主体性を持つことは、重要な前提である。具体的な振る舞いはどうあれ、心の主体性だけはキープしなければならない。そして、ここで取り上げたいのは「QOL(Quality Of Life)」である。冒頭にQOLの重要性を述べた文章を引用した。QOLとは人生の質であり、この質を高めることは人生を楽しむことと同義だといって良い。
私はここで、「日常生活をQOLを高めることを尺度に没頭する」ことを提案したい。先に述べた私の体験談は、閉じこもりを日常生活(=世の中)の体験を増やすことによって解消したということであったが、その経緯で大勢の人との接触や、さまざまな体験という非常に重要な副産物を得た。(最初は苦痛だったと思う)人との接触や、新たな体験は、やはり楽しいものと感じられ、私のQOLを高めたことはいうまでもない。

6.般若心経と空
般若心経はわずか262文字の経典であり、その短さゆえか、あるいは仏教の基本的な要素が含まれているためか大乗仏教が広まっている各国で親しまれている。日本では主に禅宗が重視しており、般若心経の密教的な要素を否定する浄土真宗と、法華経のみでよいとする日蓮宗では、あまり読まれていない。
般若心経の基本思想は「空」の理解であるとされている。有名な「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」などで、空の教えを繰り返している。空を松原泰道氏は以下のように説明する。

仏教とは、「死」、すなわち、誰もがみな死ぬんだという一〇〇パーセント確実な事実を前提として、生き方をテーマにするものです。「死」を踏まえなければ人生は正しく成立しません。
“宇宙の意思”を生かして、そして最後は土に収蔵・埋蔵する。それは、たんに滅びるのではなく、新しい想像のためなのです。般若心経はこれを手を変え、品を変えて「色即是空 空即是色」と説いています。般若心経のすべての中心はこの「無常」の「創造と埋蔵」が肌でわかること、つまり「般若の智慧」にあります。
“宇宙の意思”のもうひとつが「無我」です。これは「すべてのものが関わりあって生きている」ということです。植物が炭素をすって酸素を呼(は)き、動物は酸素を吸って炭素を呼(は)くという、子どもでも知っているような、簡単な事柄からでも、お互いに関わりあっていかなくては生きられない。そうしないと生きていけない、ということがわかるのではないでしょうか。
この「無常」と「無我」を総括したのが「空」です。
(学習研究社編「般若心経の本」より松原氏語り「「大いなる平凡」を目指して」から引用)

ここで空は無常と無我の総括であるとまとめられている。私がここまでに取り上げたなかで、ダイアーの心棒論は日常生活に没頭することで禅と逆の方向から「無我」に達するものであり、徒然草の基本は「無常」であるとされている。私は心棒を作る大切さを書いてきた上で、図らずも仏教の「空」を説明してきたのだろうか。

道を突き詰めていく中で、見つけ出される答えが案外、平凡なことはよくあることだ。茶道の奥義の一つに「夏は涼しいように、冬は暖かいように」とある。奥義にたどり着くまでの考察は容易いものではなかっただろうが、やはり結論は平凡といえよう。日常生活は平凡の連続である。時に非凡があるかもしれないが、長い目で見ればたまに非凡があることが普通であり、平凡である。たとえば、地球の気候はこの100年間は穏やかだったといわれている。異常気象だと騒がれる年が続いているが(環境破壊などの原因は憂慮すべき問題だが)、地球の誕生までさかのぼれば、この100年間は穏やかで非日常だったようだ。時には非凡が日常で、平凡が非日常ということもある。
ともかく日常という平凡に生きることは、神経症的な人生に思い悩むことを忘れさせる。凡人に変えてしまう。しかし、自律的な時間の中で何かに没頭する体験があれば、没頭している時間は無我を体感できる時間でもあるのだ。無我夢中とはこのことであろう。行動に没頭することで無我を体感できるのは、平凡な日常に生きるからこそ、なせる技ではあるまいか。禅が瞑想によって無我を得るように、日常は行動によって無我を得ることができると思う。

Ⅲ.生活に品質を求める

私はここまで、神経症的な態度や感情を解消することを主眼に、心に主体性を持つこと、日常生活にQOLを尺度に没頭することの重要性を述べてきた。ここからは神経症から離れ、一歩進めて人生の価値の向上を考えたい。
そもそも人生の質とは何か、人生を時限のある日常の連続ととらえるならば日常生活を快適に高品質に過ごす方法はあるのか、心の主体性とQOLはどう関連付けられるのか、などをヒントに、QOLを高める術を考察する。

1.本来のQOL
元々、QOLは欧米のホスピスや治療法選択、障害者の生活改善を考えるためのキーワードである。日本では癌患者や難病患者の議論が多い。そのためQOLといえば、たとえば乳癌の乳房温存療法や、難病の子供に対する病院内学校の充実などが取り上げられている。
この文章でのQOLは、人生をいかに楽しく生きるかといった、健常者の人生の向上を強く意識して考察しているため、上記のQOLとは根の部分は同じとしても、枝葉を異にしている。

2.人生に意味はあるか
人生に意味を求めることは、かのスヌーピーの例と同じく、大した成果をもたらすものではないと思う。もちろん、人生に意味を求めることをすべて否定する気はないが、哲学者や宗教者でない我々のような者にとって意味のあるものとは思えないのだ(「意味を求める」ことが「意味がない」という哲学的で回文のような展開となってしまった)。
現代の日本では、純文学をよく読む人ほど精神病や神経症になりやすいという報告がある。日本の純文学は私小説の形態を取ることが多く、一般的に哲学や心理学のような話の展開を見せるものもある。人生を深く考えるために、純文学の果たす功績は無視できない。皮肉なことに、純文学に親しみ、人生を深く考える人ほど精神病や神経症になりやすいという報告がある。芸術と狂気は紙一重であり、優れた芸術家が心理的に問題を抱えていることは少なくないようだ。昔から詩人のリルケがフロイトに治療を断られ、ヘッセもユングに断られているのである。人生の意味を考えることが、時に有害になることもあるようだ(リルケやヘッセのように芸術まで高めることになれば狂気も有意義だといえるかもしれないが…)。
私が述べてきた「日常生活に没頭せよ」ということは、人生そのものを深く考えることの拒絶という側面がある。そうでありながらも日常生活に没頭することは、人生の意味のようなものを見出す効果的な方法の一つだ。つまり、逆の方向から同じ答えに向かおうとする試みなのだ。日常生活の没頭は禅における無我、般若心経における空に至るための、まったく行動的な方法といえる。

A.強度の追求
この節の命題は「人生に意味はあるか」ということだが、「人生に意味はない」と言い切るのは社会学者の宮台真司氏である。

「意味」の充実とは別の種類の濃密さを「強度」と言います。これはポスト構造主義という哲学の概念で、フランス語でアンタンシテ、英語でいうとインテンシティ(intensity)の訳語です。「密度」とか「濃密さ」と訳したほうが分かりやすいかもしれません。もっと簡単に言えば、意味とは<物語>、強度とは<体感>に相当しています。なぜなら、<物語>は過去から未来につながる時間の展開が重要ですが、<体感>は「今ここ」が重要だからです。
これはもともとは、19世紀の哲学者ニーチェの「生の歓喜」という概念にルーツがあります。ニーチェは、「意味が見つからないから良き生が送れないのではなく、逆に、良き生を送れていないから意味にすがろうとするのだ」と言いました。そういう生き方は、2000年前に出現したキリスト教が「生きることの意味を考えはじめた」ところから始まると考え、そういう生き方しかできない人間たちのことを「弱者」と呼んで、軽蔑しました。
(藤原和博・宮台真司著「よのなか」より宮台氏担当「意味なき世界をどう生きるか?」から引用)

宮台氏は「まったり革命」として、意味から離脱し強度を追求する生き方を勧め、また「限りなき日常を生きろ」とも言っている。同書で「世界は無意味、でも人生はそこそこ楽しい」と「人生はそこそこ楽しい、でも世界は無意味だ」の2つの表現を比較している。どちらも人生はそこそこ楽しいと感じ、世界は無意味と感じている。しかし、この2つの表現には大きな差がある。前者は無意味を前提とした上で人生を楽しむポジティブさであり、後者は人生を楽しく感じながらも世界の無意味さを悩んでいる。宮台氏のまったり革命は、もちろん前者である。

私の「人生に没頭せよ」が、人生そのものを深く考えること(=意味の追求)からの拒絶であることは既に述べた。そして人生に没頭する尺度としてQOLを提案したわけだが、宮台氏による強度の追求はQOLの向上に大きなヒントを与えるだろう。

B.シンプルライフ
人生の舟を軽やかに。必要なものだけを積みこむこと。-質素な家、素朴な娯楽、その名に値する一、二の友人、愛する人と愛してくれる人、猫一匹、犬一匹、一本か二本のパイプ、最低限の衣類と食料、最低限より少し多くの酒。なぜなら、のどの渇きは体に毒だから。
(イレイン・セントジェームズ著、田辺希久子訳「人生を複雑にしない100の方法」より「はじめに」のジェローム・クラプカ・ジェロームの言葉を引用)

シンプルライフは人生を複雑にしないことを重視する。人生の大切な時間を余計なものに取られることを拒否し、より自分の好きなことに充てようとする。シンプルライフは時間だけではなく、自分の気持ち、感情もシンプルにして、本当に大切な気持ちや感情をより敏感に体験しようとする。
「人生を複雑にしない100の方法」には、人生をシンプルにするテクニックがいろいろと書いてある。たとえば、たまったガラクタを処分することや、テレビを見ないこと。時には電話が鳴ってもとらないことや、きらいな年中行事をとりやめることも挙げられている。個人生活については、自分自身のままでいること、そして他人を変えようとしないこと。

日常生活では、さまざまなわずらわしいことが生まれがちである。気の進まない人間関係、古い習慣からくる規則などキリがないだろう。その時、このシンプルライフの知恵はよい規範となるだろう。冒頭の言葉に「人生の舟を軽やかに」とある。わずらわしくて余計なものを積みこんだ舟は、方向をうまく決められず、進むスピードは遅い。人生という大海を進むとき、このような重い舟では心もとない。小回りがきかず遅いので大海のあちこちを見てまわることができない。場合によっては沈んでしまうかもしれない。一方で、シンプルライフによって得た軽い舟は、沈む心配がなく、大海のあちこちを楽しむことができる。高波にさらわれることがあるかもしれないが、小回りがきくのですぐに立て直せるだろう。
このように、日常生活をシンプルライフの考え方によってシンプルにすることで、より日常生活(=人生)に没頭することができるだろう。

C.知的生活の方法
「知的生活の方法」は、この文章でもたびたび出てくる渡部昇一氏のベストセラーである。知的生活とは「本を読んだり、ものを書いたり」する生活のことであるが、現在の日本では万人が本を読めるし、その気になれば(私のように)たとえ拙くとも、ものを書くこともできる。知的生活は、本を読むことによって知識を手に入れ、ものを書くことによって自分の考えを整理し、定着した知識はさらに社会生活や、仕事にも還元する。
知的生活では本を読むことが最重要視される。だから、自分の書斎(本は図書館ではなく自分の私的財産にすることが望ましいとしている)を持ち、時間を読書のために割く。こうなると、世俗的な日常生活は拒否されているような感じがするが、そうではない。新・知的生活の方法として出された「ものを考える人考えない人」によると、自律的な時間(自分の好きなように使える時間)と他律的な時間(仕事などの自分以外の事情によって使い方が決められる時間)という表現を使って以下のように説明している。

そうした逡巡の結果、先生はこうした結論に達した。学校の授業はおろそかにするわけにはいかない。むしろ、授業は積極的に受け入れ、休むことなく出席する。帰宅後にはノートを整理し、関連の本を読んで勉強する。
ただし、授業のない週末は完全に“自分の時間”とし、自由に活用する。自分の好きな本を読んだり、好きな勉強をしたり……。
このバランスはとても優れているように思う。「読書が好きだから」「授業がつまらないから」などと言って学生が学校をおろそかにするのは愚かなことである。
学校の授業には準備や復習、試験やレポートなどがついていて、単なる自己流の勉強では身につかないことが身につくものだ。ただし、それだけだと他律的になりやすい。そこで、週末は自分の時間とすることで他律的と自律的両方のバランスを取る。そうすることで限られた時間を有効に使うことができる。そういっても過言ではない。
(渡部昇一著「ものを考える人考えない人」より引用)

また、お金に対しても、お金は処世の基礎であり、経済的自立なしには世間はその人を評価せず、知的生活も経済的自立なしには成り立たない、としている。もちろんお金にこだわることは誉められたものではない。しかし、貧苦は人間の精神生活を乏しくするものであり、時には神経症や精神病に陥り、犯罪につながることすらある。お金を得る仕事は自律的な時間を売ること(=他律的な時間を過ごすこと)であるが、経済的自立は必ず達成しなければならない。
先に述べた心の主体性は、いかなる時でも自分の自由になる自律的な心を手に入れることであった。しかし、時間は心のようにはいかず、他律的な時間も受け入れなければならない。大切なことは自律的な時間と他律的な時間のバランスを取ることであり、知的生活、さらにQOLの向上のための必須条件である。

Ⅳ.終わりに

1.つれづれなるままに
徒然草の序文にある、かの有名な文章を取り上げる。

徒然草・原文
つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。

著者の兼好は心に思うさまざまなことを書き付けている。そうこうするうちに、日常の喧騒を離れ、心が自由になる気持ちになると感じている。何かを書くことでトリップした感覚を味わっている。
私は「日常生活に没頭する」ことを再三、述べてきた。ここで徒然草を取り上げ、兼好のトリップに言及することになったが、日常生活を否定したのではない。兼好はトリップによって、より深く日常を感じているのだと思う。兼好は徒然草で、四季の移ろいを楽しみ、社会的な問題を考察している。時には処世術や女性の色気にまで話は及ぶ。まったく日常に即している。

考えてみれば私も、人生そのものを深く考えるのは時に有害であるとまで言いながら、この文章を書くことで人生を考えていたのだ。この考えに至るまでは長い考察期間を必要としたが、文章を書くこと自体は実は非常に短期間であり、ある意味ではトリップしていた。
兼好には遠く及ばないまでも、実際の体験などを思い起こしながら、深く日常を感じることができたと思う。また、インターネット上のコラムなどで有名な田口ランディさんが言っていた「書くこと、話すことによる癒し」を体感することもできた。

2.学習ノートの「まとめ」
この文章は、引用に頼っている部分が少なくない。となると、何が自分の意見なのかわからなくなってしまうこともあるが、私はこの文章は、さまざまな意見を私なりの見方と体験によって結び合わせたものだと考えている。そこから生まれる新しい考え方も出てくると思っている。
また、この文章を書く過程は、自分の思索を確かめ、発展させる、考察の過程でもあった。そのため、前半と後半で話が食い違ったり、ひどいのになると、前後の小節ですら違うところがあったかもしれない。最初に述べたように、やはりこの文章は「私の学習ノート」であったのだ。
私は今、この文章で考察してきた考え方を、もっと分かりやすくまとめる必要があると感じている。そのために、どういった形式をとり、どう展開すればいいのかまだわからないが、そのうち良策が見つかるだろう。ここでは、学習ノートのまとめとして、特に重要な部分だけを抜き出し、この文章の中での結論を出しておくことにしたい。

私はこの文章を書くにあたって、人間の生き方の段階を3つに分けて考えた。神経症的な症状がある状態、適応している状態、よりよい生き方をしている状態の3つである。そして、神経症的な症状がある状態から適応している状態に移るための方法を第1章の「神経症的性質の解消とQOL」に書いた。また、適応からよりよい生き方に至るための方法を第2章の「生活に品質を求める」で考察している。
とはいえ、第2章は第1章の続きといった感覚が強くなってしまい、明確な分類には至らなかった。しかし、私はそれで問題ないと思っている。第2章で取り上げた「自律的な時間と他律的な時間」に関する話は、第1章の主題であった「自律的な心を作ること」と関連し、より具体的な生活での重要なテクニックとなった。

先に述べた心の主体性は、いかなる時でも自分の自由になる自律的な心を手に入れることであった。しかし、時間は心のようにはいかず、他律的な時間も受け入れなければならない。大切なことは自律的な時間と他律的な時間のバランスを取ることであり、知的生活、さらにQOLの向上のための必須条件である。
(第2章第2節「人生に意味はあるか」中の「知的生活の方法」から抜粋)

ここで抜粋したこの考え方は、最重要部分の一つである。

これはまさしく、この節の主題である「心棒」の話である。人の心に主体性を持つことは、著者の言葉をそのまま借りれば「心の主」であり、その主は当然、自分自身がなるべきなのだ。逆に主なき心は神経症的な感情に悩む人のことだ。主(心棒)を持てない人の心には、さまざまな雑念(妄想や、思い込みなど有害な感情)が入り浸り、健全な精神生活に支障をきたすことになろう。
(第1章第4節「心棒を作る」中の「主ある家には~徒然草」から抜粋)

自律的な心の重要性はここに凝縮されている。神経症は主なき心(=他律的)であり、適応は主ある心(=自律的)なのだ。自律的な心を持つ具体的な方法についてはダイアーが詳しいだろう。

ともかく日常という平凡に生きることは、神経症的な人生に思い悩むことを忘れさせる。凡人に変えてしまう。しかし、自律的な時間の中で何かに没頭する体験があれば、没頭している時間は無我を体感できる時間でもあるのだ。無我夢中とはこのことであろう。行動に没頭することで無我を体感できるのは、平凡な日常に生きるからこそ、なせる技ではあるまいか。禅が瞑想によって無我を得るように、日常は行動によって無我を得ることができると思う。
(第1章第6節「般若心経と空」から抜粋)

これは時間の使い方、つまり行動の方法によってQOLを向上させる術である。自律的な時間の使い方ともいえるが、自律的な心を持てば、他律的な時間であっても「従事」という考え方によって、このような体験をすることは可能だろう。ここに抜粋した文章は自律的な心と時間の架け橋となるものであり、時間の使い方を日常生活の行動術と捉えれば、「日常生活に没頭する」こととは、どういうことなのかを示すものとなる。
また、ある行動(活動)に没頭することによって得た無我を、宮台氏のいう「強度」と結び付ければ理解はより強固なものとなるだろう。没頭による無我を体感しているときは、意味など考えないものである。宮台氏がよくたとえに使っているように、おいしいラーメンを食べているときに、こういうレシピだからおいしいとは思わないということだ。

以上がこの文章に書いた学習成果のまとめである。

3.参考文献
この文章を書く上で、またこの考え方に至るまでに参考とした文献を挙げる。ここにあるのは大半が私の手持ちのものであり、公立図書館のものや、すでに廃棄してしまったものは、ほとんど含まれていない。

斎藤学「アダルト・チルドレンと家族」学陽書房
西尾和美「アダルト・チルドレン癒しのワークブック」学陽書房
AC研究班編「アダルト・チルドレンが自分を愛するための12章」三心堂出版社
アンジェラ・ロスマニス「孤独と上手につきあう」片岡しのぶ訳、東京図書
ハーバード・L・グラヴィッツ、ジュリー・D・ボーデン「リカバリー」大越崇訳、星和書店
町沢静夫「飛べないトンボの心理療法」PHP
町沢静夫「「こころの居心地」がよくなる心理学」三笠書房
別冊宝島「わかりたいあなたのための心理学・入門」宝島社
特集アスペクト「あなたも神経症」アスペクト
南博「初歩心理学」光文社
渋谷昌三「よくわかる心理学」西東社
福島章「精神分析で何がわかるか」講談社
ウエイン・W・ダイアー「自分のための人生」渡部昇一訳、三笠書房
ウエイン・W・ダイアー「どう生きるか、自分の人生!」渡部昇一訳、三笠書房
ウエイン・W・ダイアー「もっと大きく、自分の人生!」渡部昇一訳、三笠書房
ウエイン・W・ダイアー「自分の中に奇跡を起こす!」渡部昇一訳、三笠書房
渡部昇一「知的生活の方法」講談社
渡部昇一「ものを考える人考えない人」三笠書房
加藤諦三「自信」三笠書房
エイブラハム・J・ツワルスキー「いいことは、いつくるかな?」笹野洋子訳、講談社
エイブラハム・J・ツワルスキー「いつだって、誰かがいてくれる」笹野洋子訳、講談社
イレイン・セントジェームズ「人生を複雑にしない100の方法」田辺希久子訳、ジャパンタイムズ
藤原和博、宮台真司「よのなか」筑摩書房
宮台真司「これが答えだ!」飛鳥新社
ヨースタイン・ゴルデル「ソフィーの世界」池田香代子訳、NHK出版
須田朗「「ソフィーの世界」哲学ガイド」NHK出版
角川書店編「徒然草」角川書店
学習研究社編「般若心経の本」学習研究社
松原泰道「般若心経入門」祥伝社

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ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ 株式会社ビビンコ代表取締役 AI・IoTに強いITコーディネータとして活動していたところ、ビジネスコンテスト「北九州でIoT」での入選をきっかけに、株式会社ビビンコを創業。IoTソリューションの開発・導入や、画像認識モデルを活用したアプリの開発などを行う。 日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。 近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。

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