「吾輩は猫である」の謎

これも、買い込んだ新書の1冊。
著者は、「不勉強が身にしみる」で初めて知った長山靖生氏。

実は、「吾輩は猫である」は私の愛読書の一つで、何度も繰り返し読んでいたりする。読むたびに味わいが深いのである。基本的に海外よりも日本好きの私としては、明治時代の日本というのは一つのワンダーランドであって、その頃の暮らしぶりや、ものの考え方が手に取るように書いてある「猫」に浸っているのは、なかなか楽しいことなのだ。

さて、この新書は、著者の長山氏も「猫」フリークなのであろう。そして、その頃の日本に興味津々なのであろう。様々なトピックを取り上げては、事細かな研究報告が連ねられている。
即物的に実用的というわけではまったくない。まさに教養である。

例えば、迷亭のホラ話の一つに、西洋料理屋で「トチメンボー」を頼んでボーイを困らせる話がある。で、そのオチが「材料は日本派の俳人だろう」なのだが(この部分は実に落語のような話の展開で面白い。夏目漱石の落語好きが影響した部分といわれる)、そのトチメンボーとは俳人「安藤橡面坊」の名前から取られたものだという!
安藤橡面坊は俳誌「ホトトギス」で活動していたのだが、「猫」もホトトギスに掲載されていたわけで、要は楽屋オチなのである。
これが分かって、はじめて「材料は日本派の俳人だろう」というオチで笑えるのである。それまで、分からないなりに笑っていたのが、本当に笑えるようになる。

何の役にも立ちそうにないが、これも教養だ。
ところで、「猫」というとあまり高尚なイメージがない。別にイメージで読書するわけではないから、構わないのだが。
しかし、渡部昇一氏は「知的生活の方法」で、「猫」を取り上げている。「猫」の本当の面白さが分かってゾクゾクしたのは、だいぶ大人になってからだそうだ。どんな本でも、流行で読み流すよりは、ゾクゾク面白い方が数十倍良い。

ところで、「猫」の主人公(猫の吾輩は別格として)である苦沙弥先生が矮小化した自分(漱石)であるというのは有名なところですが、長編の中で1箇所だけ、漱石自身が登場するのをご存知でしょうか。

せんだっても私の友人で送籍(そうせき)と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧(もうろう)として取り留(と)めがつかないので、当人に逢って篤(とく)と主意のあるところを糺(ただ)して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡(たんかん)に送籍君を打ち留めた。東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。「送籍は吾々仲間のうちでも取除(とりの)けですが、(以下略)
夏目漱石・著 「吾輩は猫である」

これは主人の家を訪ねた越智東風(おちこち)君の切り出した談話で、字は送籍と変えているものの、漱石自身が登場しています。ま、迷亭に「馬鹿だよ」と一蹴されるだけですが。

さておき、思いついたのですが、「猫」というのはある意味ブログみたいなものです。これといって話の筋があるわけでなく、様々な話が時系列に並んでいる。猫の吾輩が見たことという構成があり、もちろん漱石の創作ではありますが、先に見たように楽屋オチがあったり、例えば水島寒月=寺田寅彦のようなモチーフがいて、実話が元になっている部分もある。その上で、漱石の当世批評も織り込められているのです。

ふむ、また「猫」が読みたくなってきた。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。2018年、株式会社ビビンコを北九州市に創業。IoTソリューションの開発・導入や、画像認識モデルを活用したアプリの開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。