河口湖で富士山を見てきたこと

もう10日ほど前のことですが、河口湖に行ってきました。何かアウトドアスポーツをやっているとか、釣りとか、そういうのではなくて、大自然の中で本を読んだり考え事をしたりしたかったから。
中央高速バスで到着した河口湖は、自分の想像を遙かに上回る観光地っぷりで、正直言うと、少しがっかりしたのです。しかし、雄大な自然はやっぱり感じられて、特に早朝(泊まりがけで行ったので)の富士山は息をのむ美しさでした。

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河口湖は富士五湖の1つだけあって、あの辺に行くと、どこからでも富士山が見えます。東京からでも見える場所があるくらいなので、見えるのは当然と言えば当然なのですが、それでも富士五湖から富士山というのは決して近接しているというわけではないのです。
それから、河口湖を半周くらい歩きながら富士山を見てみると、どこから見ても同じ形に見える。そして、有名な逆さ富士も湖面に映っている。
こういうものを見ると、自然というものがいかに雄大であって、そして不変であるのかを感じざるを得ません。人間というのはちっぽけなものだな、と、小説や映画で、よく聞いていたことが、まさに自分自身の想いとして感じたのです。これは、自分の価値観を変えるに十分のインパクトがあります。

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一方で、河口湖大橋もまた美しい。大自然の象徴たる富士山と比べると、河口湖大橋は人工物の象徴のように感じました。先ほど、「人間というものはちっぽけである」と感じたと書いたのですが、河口湖大橋などを見ると「人間というのはあながち捨てたものではない」と感じるのです。

そして、河口湖を取り囲むようなWalking Trailを歩きながら、いろいろ考えました。大自然は間違いなく雄大であり不変のものだ。そこから見れば人間はちっぽけな存在に過ぎない。とはいえ、人間の成果というものも捨てたものではない。あの橋は何十年か前の人が、多くの人が関わって出来たものなのだろう。ちょっと待てよ、そもそも自分が河口湖に来ることが出来たのはなぜだ?それもまた、先人の成果なのではないか。いや、それだけではない。昨日、河口湖畔のホテルに泊まったのも、ホテルを建てた人がいて、運営している人がいるからではないか。ということは、先人だけではなくて、今日の人の成果でもある。自然の雄大さは変わりないが、その自然に対峙して来た人間というものの営みも偉大だなぁ、と。

私は何かの宗教に傾倒しているというわけではないのですが、例えば仏教で輪廻転生という考えがあったり、「おかげさま」という言葉の深みを教えたりします。富士山や河口湖といった自然、そしてその中で生きてきた人間というものを目の当たりに感じて、自分という人間は自分だけで生きているのではない。先人の成果の上に、そして今日生きている多くの人の支えがあって「生かされている」。これが人間という社会総体としての輪廻転生であり、「おかげさま」ということではないのか。

では、私は何が出来るのだろう。何の成果を今日生きる人に、そして未来の人たちに残すことが出来るのだろう。自分が「生かされている」のなら、自分もまた誰かを「生かす」存在にならねばならない。

そこまで考えて、ベンチに腰掛けた時、鼻血がでました。(本当に!)

夏目漱石の「吾輩は猫である」で、血を逆上させるのがインスピレーションだなんて書いてあったなぁと思い出しました。
大自然をリアルに感じることが出来たからこそ、このインスピレーションに到達したのだと思います。素晴らしい体験でした。

この日にXPERIAで撮った河口湖と富士山。YouTubeにアップしてあります。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。2018年、株式会社ビビンコを北九州市に創業。IoTソリューションの開発・導入や、画像認識モデルを活用したアプリの開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。