好きじゃないけど得意ってことはあるのだろうか

「好きを貫く」に関する議論に、ひがやすをさんも参加されて、また違った視点を投げかけている。

好きを貫く – ひがやすを blog
たぶん、ものすごく努力すれば、そこそこ飛ぶようになるかもしれないけど、きっと「そこそこ止まり」。一生懸命努力したのにそこそこってのは悲しいよね。
好きなことを極めるより、得意なことを極めるほうが、うまくいく可能性が高いと思う。

ひがさんは、プログラミングが好きじゃないと言っている。
それなのに、Seasarのような成果を上げている。
それは、プログラミングは好きじゃないけど、得意なことだからだそうなのだ。
「好きじゃないけど得意」。そんなことってあるのだろうか。

対象そのものは好きではないけど、それをすることによって自分の能力が発揮できて、人からも感謝される。その、「能力が発揮できている」と感じることや、「人から感謝される」ことが好きという見方も出来る。
たしかに出来るのだが、本当にそれだけなのだろうか。
人から感謝されるのは嬉しい。それが好きというのは、よく分かる。
ひがさんは業界の有名人の1人だし、いろいろなセミナーでもステージに立たれる。
それは、世間の人が感謝しているというか、社会の役に立っていると評価されているから、そういう座に就くことが出来る。
ひがさん自身がどう思っているかは分からないが、例えば私などは、なかなか自己顕示欲が旺盛なところを否定しないから、そういう座に就けば、それは好きと思えるだろう。
能力が発揮できるというのは、どうか。分からないでもないのだが、それって、誰でも出来るような仕事ばかりを引き受けて、やたら自分を忙しくて、それを片付けた夜中に、「あー、よく働いたなぁ」というのも同じ?その疲労感をビールなどで癒せば、当座の満足感は味わえよう。
ひがさんの場合は、まぁ、違うだろう。
Seasarを作ったり、普及させたりする仕事が、誰でも出来るような仕事とは到底思えない。つまり、自分にしか出来ない仕事をやり遂げるから、真の意味で能力を発揮できていると思うのではないか。
ひがさんが、最初にAPサーバを作って、次にフレームワークを作るというのは、技術的なところ、それも基盤に近いところに志向性を置いたからだ。そこに、何か「好き」があったのではないか。
SIerに入ったら、目の前にそれがあったからというだけではあるまい。
自分の能力が発揮できると思えば、何でも良かったのだろうか。
自分には、どうも、そう思えない。
どこかに好きがないと、一角の成果を上げるまで時間をかけようという気持ちになれないのではないかと思うのだ。
「好き」というのには、いろいろな角度があるということだろうか。
「対象そのものが好き」というのが、狭義の好きだと思う。
しかし、広義の好きなら、色々なバリエーションがある。
ただ、広義の好きを言い始めると、それは価値観と同義ではないかということになる。
志向性と価値観は似て非なるものだ。
「好き」という言葉が覆う領域を少しずつ広げていったときに、どこかで限界が来る。
おそらく、その限界は、心の向き(ベクトル)を感じられなくなったときだと思う。
詰まるところ、「好きを貫く」に関する議論は、「好き」をどう捉えるかに帰結している。
私自身としては、少なくとも何か自分の心を、行動を衝き動かす何かがあるんだよね?つまり、それが行動を引っ張り出すようなことなんだよね?と、その程度ではないかと思っている。
あとは、昨日書いたように持続性が必要で、その強弱によって、色々なバリエーションが見られる。
ひがさんの場合、「好き」じゃないかもしれないが、志向性を感じられる程度の好きはやっぱりあって、さらに持続性があった。その結果が、氏の成功なのだと思う。
世の中で騒がれているほどの「好き」が見つからなくても、何か心を衝き動かす志向性を見いだして、それを何か成果が出るくらいまでやってみな?というところだろうか。
まぁ、まさに自分自身に向かって言いたい言葉であるが…。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。2018年、株式会社ビビンコを北九州市に創業。IoTソリューションの開発・導入や、画像認識モデルを活用したアプリの開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。