想像力のある人が幸せになれる

以前、SEには想像力が必要だということを書いた。
SEが携わるシステムはいろいろある。一般消費者向けのWebサービスのように、自分自身もユーザになれるし、ユーザを身近に感じられるものがある。一方で企業1社が使用する社内システムもある。こちらは、自分自身がユーザになることはない。ユーザを身近に感じられるかは、自分のSEとしての立ち位置による。単に詳細設計やプログラミングだけをやっているのか、要件定義や基本設計といった上流工程、あるいは運用でユーザと直接やり取りしているかでまるで違う。

身近なところにユーザがいる仕事なら、自分が携わったシステムは役に立っているらしいことがリアルに感じられる。特に一般消費者向けだと自分自身もユーザとして便利さを体験できるのだからなおさらだ。逆に、身近なところにユーザがいないと、自分の仕事に本当に意味があるのか?と疑問に感じることがある。ユーザが身近にいても、社内システムのリプレースなんかだと、ユーザは旧システムの方が慣れているから、新システムは嫌がられたりする。まぁ、ユーザにしてみればシステムを使うこと自体は本質的な仕事ではなかったりする(たとえば営業マンは仕事を取ってくるところにやりがいを感じているのであり、営業支援システムを操作することにやりがいを感じているのではないだろう。)のだから、仕方ない部分はある。それでも、長期的には、いつか役に立つと感じてくれるだろうと思ってSEは仕事をする。(もちろん、いつかは役に立たなければシステム開発の投資コストを回収できないわけだが。)

だから、想像力が必要なのだ。いま、自分がやっている仕事は、いつどんな役に立つのか。それを想像出来なければ、やりがいなんて生まれない。実際、役に立たない仕事なんてない。自分が仕事をして給料なり報酬なりをもらっている以上は、どこかにそのお金を払っている人がいるのであり、その人は役に立つ仕事をしてくれると思うからお金を払うのである。でも、具体的に何の役に立つのかを想像出来ないと、やはりやりがいにはつながらないものだ。

想像力が欠如していると、いろいろな問題が起こる。想像力というのは、自分の目の前には存在していないことを思い描く力である。世の中の物事の多くは、いま自分の目の前にあることは快適なことではなくても、それが将来的な快適につながるものだ。日々の運動とか、ダイエットとか、禁煙とか、節約とか、勉強とか・・・。やり続ければ絶対に効果があると思われることのほとんどは近視眼的には辛いことだ。想像力のある人は、いまは辛いけど、将来的に効果があるということを想像出来る。だから、辛いことでも我慢できるし、実際幸せになれたりする。想像力のない人は、我慢が出来ない。そういう人は自分の人生がどんどん詰んでいく。

「人生詰んだ」という人がいる。なぜ詰んだと思うのだろう。それは、自分の目の前にある事態が詰みつつあるからだ。そのままに放置しておけば本当に詰むだろう。しかし、将来的に訪れる幸せを現実的に想像出来る人であれば、事態を放置したりはしない。どうすれば良いかという道筋を描けるからだ。

この文章の前半では自分の仕事が役に立っていると感じられる想像力、後半では自分の将来が幸せであると思える想像力について書いた。言い換えると、前半は「いま」自分が幸せであると感じられる力であり、後半は「将来の」自分が幸せであると信じられる力なのだ。

どうやら、ここ最近というかここ数年の私は、想像力に欠如していたように思う。それがいま目の前に起きている事態につながっていると思うのだ。

「不幸になる生き方」では、私のいう(後半の)想像力を「双曲の法則」という言葉で説明している。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。画像認識モデルを活用したアプリや、生成AIを業務に組み込むためのサービス「Gen2Go」の開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。