勉強しろよ!

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最近、やたら読書人となっている私が今読んでいるのが「不勉強が身にしみる」。これは、書店の新書コーナーで「ぱっ!」と目に飛び込んできて、そのタイトルがあまりに身にしみてしまったので購入した。まだ、今日買ったばかりなのですべては読んでいないが、第一章でドラゴン桜の台詞が引用されている。

「社会のルールってやつは、すべて頭のいいやつが作っている。そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られてるんだ。逆に都合の悪いところは、わからないように隠してある。(中略)つまりお前らみたいに頭を使わずに面倒くさがっていると、一生だまされて、高い金を払わされるんだ。(中略)だまされたくなかったら、損して負けたくなかったら、お前ら、勉強しろ」

さらに、フランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーの「箴言集」より

「利口な人はきっと自分のさまざまな欲の序列を定めて、それぞれの欲に順位を守らせているに違いない。われわれの貪婪さはわれわれを一時にむやみに多くのものに向かわせることによって、しばしばこの順位を乱し、結局最もつまらぬものを欲しがるあまり、最も大切なものを取り逃がすようにしてしまうのである」

と、ある。
つまり、勉強せねばならないし、一時の欲で勉強の序列を後ろに持っていくことは戒めなければならない。

最近、自分は馬鹿だなぁと思うことが多い。例えば言葉を知らないとか、常識的な知識が欠けているとか、物事を多面に見ることが出来ないとか、そういうことだ。この本にもあるが、「創造性は、基礎的な知識や思考訓練があってこそ、発揮されるもの」である。つまり、自分にはそういう基本がないなぁと思うのである。

まぁ、馬鹿というのを単に自己卑下で捉えてもあまり前進がなさそうなので、前向きに捉えるとすれば、「いちばんの馬鹿は、自分が馬鹿であることを知らない」というから、それよりは少し進歩したと言えるだろう。「知的生活の方法」にもあるように、「知的正直」でなければならない。知らないものは知らない、分からないものは分からないと認めることが、まず大切なことだ。(でも、それをやると、自分のあまりのモノの知らなさに驚愕する。愕然とする。まずは、それに耐えねばなるまい。そこでへこたれてはならない。)

自分の馬鹿さ加減は、何も今になって気づいたわけではなく、例えば一昨年あたりに法政大学の通信教育を始めてみたのは、その端緒であった。しかし、わずか1年で、たったの数単位を取っただけで、学費を払わず除籍となってしまった。続かなかったのである。ラ・ロシュフコーに倣えば、利口でなかったので、大学通信教育の序列を思いっきり後ろにやってしまったのである。(それでも、経済学部商業学科だった私は、トマス・マンとかアダム・スミスとかリカードとかマルサスとかマルクスとかエンゲルスとか…そういったいにしえの経済学者の名前を聞くと、若干の反応を見せるのは、その効果である。そういうとっかかりというか、引き出しをいろいろ作りたいのである。それなりに統合された知識の形で。)

だから、今回、また、それを思い出したというのが妥当なところだ。忘れっぱなしであるよりは、まだ救いがあろうかというものだ。

今回は、じゃぁ放送大学にでもしておくか…(法政大学のように教科書や参考文献をひたすら読む独学よりも、放送大学のようにテレビなどで授業をやってくれた方が、楽だろうなぁとか。まぁ、あまり褒められた発想ではない。)とか、考えていないでもないが、それが、今、自分が求めているものなのかという点では、まだ答えではない。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。画像認識モデルを活用したアプリや、生成AIを業務に組み込むためのサービス「Gen2Go」の開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。