今から30年以上も前に初版が出た本を読んでいました。
そこで、「ゼロックスなど、複写機の発明によって」という文章に出くわしたのです。コピー機のことを複写機と呼ぶのもなかなか大仰で、ゼロックスは今ではせいぜい会社名として認識されるだけでしょう。コピー機全般を指しているなんて思う人は、相応の年代に限られます。
30年前というと、私が生まれるもう少し前のことです。だから、その頃のことなど知る由もありませんが、コピー機が世の中に出回り始めた時代と考えると、きっと、いろいろなモノが世の中に出始めた頃なのではないかと思います。その頃、新しかったモノは、おそらくハードウェアばかりでしょう。
新しいハードウェアは心がときめきます。あぁ、これが私たちの世の中をどう変えていくんだろう…と、ワクワクした気分になるものです。
そういう気分になるのは、ハードウェアが物体として大きいからではないでしょうか。特に、出始めのハードウェアは大概、大きいものです。おそらく、その大きさが、単に空間を占拠するというだけではなく、人間の期待を大きくするのにも一役買っているのだろうと思うのです。
現在は、あまり新しいハードウェアが出てこなくなっているように思います。もちろん、あるジャンルの新製品は追いかける暇もないほどに、次から次へと出ています。しかし、あくまで一つの完成されたジャンルの中での出来事に過ぎません。コピー機なるモノが出てきたような、新しいジャンルを作り出したモノとは訳が違うのです。ボーナス戦線の主力である薄型液晶テレビも、ブラウン管テレビのリプレースに過ぎません。
今の世の中、30年前と比べて、新しい、何かを一新させるようなモノは出て来ないものなのでしょうか。
いや、出てきていると思うのです。それは、ソフトウェアです。
ハードウェアの部分は、パソコンとインターネットによって、整備されています。あとは、その上で動くソフトウェアでしか、新しいモノは出てこないのかもしれないと思います。
パソコンというモノの歴史を辿れば、それは、電卓という特定用途のハードウェアに向けて作られていたCPUに、汎用性を持たせようと思った上での産物です。ハードウェアとしてのCPUを半完成品にして、ソフトウェアを付け足すことで完成品になります。それ故に、パソコンは大きく普及しました。日本ではその途上、ワープロというハードウェアの時点で用途を決め込んだモノが一時代を築きました。しかし、結局、パソコンに取って代わられたのです。
30年前、新しいハードウェアは「発明」として世の中に登場しました。今、その発明に匹敵する新しいソフトウェアは、「発明」として認められていません。ソフトウェアは、パソコンというハードウェアの新しい使い道のアイディアに過ぎず、アイディアは発明にならないのですから、仕方がありません。
ソフトウェアの開発は、ハードウェアの開発と比べると、チープといえます。まさにチープ革命の産物です。それだけに新しいハードウェアから感じたときめきは、それほどでもないのかもしれません。いや、きっと、ときめきを感じないのは、ソフトウェアに形がないからでしょう。空間を占拠しないモノには、なかなか畏敬の念を感じないものです。それに、あまりに次々と新しいソフトウェアが出るものだから、世の中の人々はそれに慣れてしまっているともいえます。単なる消費の対象になってしまっている点は見過ごすことが出来ません。これは、ある意味で残念なことです。
しかし、世の中のソフトウェア開発者は、昔のハードウェアの発明者と同じ気概を持つべだと思うのです。今の世の中に新しいモノは、ソフトウェアからしか出て来ません。新しいモノに、未来の希望を感じている人は、今でも決して少なくないはずです。そうである以上、ソフトウェア開発者は、世の中の希望をも開発する責務を負っているともいえるのです。