「※ただし、イケメンに限る」はかなり正しい

佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」を読みました。この本が出た頃はネットでもそれなりの騒ぎになったと思いますが、それから約半年遅れてのレビューです。

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この本を読んで、何となく頭に思い浮かんだのは「※ただし、イケメンに限る」という魔法のフレーズでありまして、我ながら困ったなぁと思うわけですが。つまり、俺が言っても正しいってことにならないじゃないかw

それはさておき、キュレーションの時代で佐々木さんが言っていることは、これといって新しい話ではありません。企業家ではなくジャーナリストなので、新しい提案というより、現状認識の本なのですね。ただ、その現状認識はかなり正しいと思われ、その認識はこの世のすべてとは言わないまでも、ITとかメディアとかを仕事としている人なら最低限知っておくべきことでしょう。

スタンディングインターネット
スタンディングインターネット / yuiseki

「何を言うかより誰が言うか」という言葉があります。まぁ、あまり良い意味で使われることはありません。しかし、現代のようにネットが普及して情報が溢れてくると、その真贋を吟味するというのは極めて難しいことで、つまり「何を言うか」で情報の価値を判断するのは無理かもしれないということになります。そうすると、必然的に「誰が言うか」で判断するしかなくなるのであり、「誰」の判断基準は、その人が過去に何を言ってきたかという過去の実績によることになります。

この点、ネットが普及してGoogleがこの世界の情報をすべてインデックス化してやると息巻いているというこの時代は便利なのでありまして、そいつが何を言ってきたかはGoogleで検索すればいくらでも出てくるわけです。

これっと、人を「この人は信頼できる」、「この人は信頼できない」とタグ付けするということを意味するので、それって「※ただし、イケメンに限る」と同じことだよねと思ったわけです。それが外見によるものなのか、過去の言動によるものなのかという大きな違いはあるけれども。一度タグ付けされれば、中身よりもそのタグで判断されるということであり、情報過多のこの時代には、それもやむを得ないということか。

この本のタイトルにある「キュレーション」とは情報を収集し、選別し、意味づけを与えて、それをみんなと共有することというような意味があるそうなのですが、それを行うキュレーターの価値は高くなるわけで、これもまたキュレーターというタグ付けが行われなければ、そもそもダメなのでしょう。

「何を」がコンテンツ、「誰が」がコンテキスト(文脈)ですが、いままではコンテンツ>コンテキストだったのだけど、これからはコンテンツ=コンテキストであって、両方揃って初めて情報に価値が生まれるということだと思います。さすがに、コンテンツ<コンテキストではないので、「何を言うかより誰が言うか」というよりも、「何を誰が言うか」の方が正しいのかもしれません。ただ、少なくとも「何を言うか」だけでは通用しない時代は来ている。

龍山寺老人
龍山寺老人 / SUNG HSUAN WANG

佐々木さんは、国家や民族で1つという文化圏はかなり分断されてしまっていて、例えば「高等教育を受けた中間層」といった切り口の文化圏が国境をまたいでいくと言っています。これもまたネットが介在して、距離よりも価値観で近さを感じることになる以上、そうなのだろうと頷けるところです。それをレイヤーと表現しているのですが、ということは「ネットとの親和性が高い人たち」と、そうでない人たちという分断されたレイヤーを生むということでもあり、ここまで述べてきたことは「ネットとの親和性が高い人たち」の間でだけ共有されることになるかもしれないという危惧もないわけではありません。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。2018年、株式会社ビビンコを北九州市に創業。IoTソリューションの開発・導入や、画像認識モデルを活用したアプリの開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。