プロフィール(仕事)その1

昨日の記事の最後にこんなことを書きました。

次にやるべきことは、自分が結局は何ができる人なのか?何をしたい人なのか?をきちんと可視化して、誰でもわかるオープンな状態にすることだと思います。noteには仕事依頼の記事を書くという機能もあるようなので、それを活用できればと…。

仕事依頼の記事の前に、まずはプロフィール記事だろうと思って書き始めたのですが、学校のことについては以前書いた記事をリンクすれば良いとして、仕事のことについて書き始めると、なかなか長くなってきてしまいました。そこで、ひとまず仕事編のその1、その2に分けることにして、その1をまず公開してしまおうと思います。

最初に入った会社でのこと

最初に入社した会社では、3か月の新人研修後に配属された1つ目の案件(懐かしのVisual Basicでの短期案件)が終わった後、子会社に出向。その子会社が提携していたベンチャー企業(シリコンバレーで成功した経験のある台湾人経営者が新たに起業し、アイルランドの大学院生が作ったモバイルWeb+決済フレームワークを日本で売るという何だかすごい会社)に派遣され、その唯一の日本側エンジニアとして、Javaとか、Webフレームワークとか、オブジェクト指向といったものをガッツリ勉強することになる。いきなりコンサルタント的立場でプロジェクトに入ったり、東京ビッグサイトや幕張メッセで行われたイベントで、現場設営したり、当日の説明員をやったり。ベンチャーなので、何でもやる。この時、21~22歳。結局、そのベンチャー企業の事業がうまくいかず、戦略子会社への出向は1年と少しで解除。

その後、自社の受託開発の部隊に戻ってきて、某投資銀行に一人要件定義に送り込まれ、いろいろ苦労しながらも要件をまとめる。開発フェーズに移ったときには新人と2年目社員がなぜか20人くらいメンバーにいて、そのリーダーを務めることになり(自分は3年目)、やはり苦労苦労で、どうにか納品・導入。このプロジェクトでStrutsというその後定番となるWebフレームワークを使う。まだ技術誌で海外事例がやっと紹介されるくらいの頃だったので、日本国内ではかなり先進的だったはず。今から振り返れば、そんなフレームワークをよく提案して、採用してもらったものだ。若気の至りだったのかもしれない。

だいたい、これくらいまでにプログラマやSEとして、一人前の仕事ができるようになったように思います。その後は、ガス配管会社のプロジェクトとか、某ガス会社のプロジェクトなど(ガス系が多いな!)、いくつかの開発プロジェクトに携わったりしつつ、オブジェクト指向とか開発方法論にガッツリとハマって、自社標準の開発プロセスとフレームワークの開発を手当たり次第の上司にしぶとく提案。何年かたって、標準化チームが社内で立ち上がり、リーダーに。

いまから振り返ってみると、それは順風満帆で少しエネルギッシュなSE生活なのですが、自分の中では課題を抱えていました。それは、一言でいえば独立心。自分の名前が付いた仕事をしたい、個人で動ける仕事がしたいといったもので、基本的にプロジェクトで動くシステム開発とは違う何かをしたい…ということでした。

そんなこともあり、標準化チームでの仕事に一区切りつけた後、6年半ほど勤めた最初の会社を27歳で退社します。(ちなみに、そのチームは優秀な後輩メンバーが引き継ぎ、社内で技術系キャリアパスを作り上げたとのこと。)

ということで、仕事編はその2に続く。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。画像認識モデルを活用したアプリや、生成AIを業務に組み込むためのサービス「Gen2Go」の開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。