朝から自分語りをしてみようと思う。
このブログに何度となく書いてきたことだが、ここ数年は自分がやるべき仕事とは何かを巡る欲求不満の毎日だった。
2000年に社会人になってSEの仕事を得た。別にSEになりたいと思った訳じゃない。ただ、九州の地元から東京に出たかった。だから、私が通った専門学校に来た求人票の中から、東京で寮のある会社を探した。そうしたら、SEになっていた。
仕事の上では概ね順風満帆な5年間が過ぎ、6年目を迎えたときに疑問に思った。この仕事は社会の何に役立っているのだろう。自分はなぜこの仕事をしているのだろう。
それが、迷いの始まりだった。最初の会社を辞めたのが2006年の夏。それからいままで4年半ほどの紆余曲折は、このブログに書き尽くしてきたので繰り返すことはしない。
そしていま、どう思っているのか。
私がこの社会で生きている理由。それは社会に何らかの貢献をするため。人それぞれに違った得意なことがあるのだから、それを活かして貢献するのが使命である。このことについては、日々想いを増している。
プロフェッショナルになりたい。なぜか子供の頃からそう思ってきた。まだ小学生だった頃に見た、ある伝記的なドラマで、主人公に専門技能があった故に世界的に活躍したことが描かれていた。最終的には人助けも出来た。そのドラマがプロフェッショナルになりたいと願うベースにある。
プロフェッショナルとして自分の中に一本の軸を持ち、それを基軸として社会に貢献していく。日々の仕事はもちろん、情報収集と思考、そして発信を行う知的生活をやる。そういう理想像が少しずつ形作られてきた。
では、私にとってその軸とは何なのか。私は何のプロフェッショナルになるというのか。
いま、私がプロフェッショナルと呼ばれるに最も近い場所にいるのは、SEとしてである。なんだかんだと10年間のキャリアを築き上げてきた。一定の評価もされてきたと思う。仮に別の分野でプロフェッショナルを目指そうとするなら、SEとしてのいまの私と同じ位置にたどり着くまで、やはり10年かかるだろう。それに、別の分野のことが私のSEとしての適性以上、向いているかも分からない。
紆余曲折の4年半は、主にSEから離れることが前提になっていた。しかし、離れることを考えれば考えるほど、私にはSEの適性があるのだろうということも認めざるを得なかった。まぁ、学生時代のバイトを除いては、SE以外の仕事を例えば半年以上続けたことはないので、はっきりとは分からないが。数年前だが、「SEになるために生まれてきたような人」とまで言われたことがある。自分以外の人からどう評価されるかは意味があることだ。
では、SEとはプロフェッショナルたり得る職業なのか。そもそもプロフェッショナルとは何なのか。
というところで、そろそろ電車に乗る時間なので、あとは今日の夜にでも書くことにしよう。