気持ちというもの

電車の待ち時間に、スマホでブログを書くということをやってみようと思います。
昔はそういうことをたくさんやっていたのですが、最近はスマホで書くのはTwitterばかりなので、どんなものかなぁと思いますが。あ、昔って言ってる頃はスマホなんてなかったから、ガラケーで。

最近このブログを始めて、Hot Heartなんてお題目を掲げました。それから自分の考え方みたいなものの癖を冷静に振り返ってみたのです。そうすると、自分はたしかに持っている熱が高めなのだろうと自覚しました。

熱が高い、つまり熱い気持ちを持ちがちということで、そうなると、やれ気持ちがあれば何でもできるとか、気持ちの気の字のメのところを*みたいなのにしちゃうとか、スパルタ大好きとか、そういう風に思われるかもしれません。
ただ、それは私としてはまったく不本意なことで、そういうのはむしろ嫌いなのです。そういう気持ちの熱さというのは、ただの自己陶酔であって、熱いと言うより蒸し暑いというか、気持ちの悪い熱さなのであります。

では、自分が思っている熱というのは何なのか。
それは、何か物事にあたる際に考えていることの深さだったり、ステップの多さだったりではないかと思います。
ちょうど今日、思わず自分が発した言葉で言うと「システムの設計というのは、それを使う人の時間の使い方を設計することである」と。
私は長いことシステムエンジニアをやっているので、何かのシステムの画面設計をやるという経験は非常に多いのですが、だいたい設計しているときは、その画面が使われるシチュエーションを想像しています。
いや、それは結構多くのエンジニアがやっていることだと思います。ただ、それをさらに進めて、ユーザが過ごす時間の設計なのだとまで言う人は多くないのではないかということです。

システムの設計は、そこまで考えなくても出来ます。それよりも、理論的に破綻してないかだとか、まさに工学的な思考の方が重要だったりするわけです。
ただ、私としては工学的な云々よりも、ユーザの時間を設計している感覚の方が好きで、その方が良いものが出来ると信じている節があるのです。

そういうところが、私の熱の高さなのかもしれません。

写真は私が今いるところ。ロマンスカーの展望席の最前からの眺め。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。画像認識モデルを活用したアプリや、生成AIを業務に組み込むためのサービス「Gen2Go」の開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。