引き続き、コンピュータの価値を巡る旅を続けることにします。
私は、梅田望夫氏の「Web進化論」につづいて、富田倫夫氏の「パソコン創世記」を読んでいます。
「Web進化論」は、正に今が旬の話題です。
一方、「パソコン創世記」は、TK-80まで溯って、PC-9801の全盛期くらいまでの話で、今となっては、歴史絵巻に匹敵する内容です。
歴史は溯れど、コンピュータに対する価値の見出し方は、ひょっとすると、あまり変わらないのではないか、もし変わらないなら、それが本質ではないかという思いです。
「パソコン創世記」は、だいぶ以前に読んでいて、再読ということになります。
今回は、読む理由があるので、引っ掛かってくる言葉も、以前とは若干違いそうです。
そんな中、序盤から至言が発掘されました。
1977年の雑誌「アスキー」の創刊号で、西和彦氏が書いた記事の引用です。
パーソナルなコンピュータをどう位置付けるかという文脈で、西氏は「電卓の延長ではないと考えます」と喝破し、「対話の出来るメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわりあうことができるもの」とも言っています。
今から、30年近く前に、こんなことを言っているのです。
この考えは、Web2.0が語られる現代でも、充分に通用しそうです。
たしかに、「あちら側」よりも「こちら側」だろうと思います。それは、マイコンがやっとパソコンになろうとしてる頃だから、仕方ありません。
しかし、既にメディアと言っていて、コンピュータがコミュニケーションツールになることを悟ったような内容です。「あちら側」も、ある程度は見えているような印象を受けます。
コンピュータの価値が、メディア(の)インフラであるというのは、現在はもちろん、過去でも進んだ人は、そう理解していたわけで、1つの本質のように思います。
ところで、私は、若干の違和感を感じています。
メディアインフラというのは良いとして、当然、それ以外の本質もあるはずなのです。
つまり、私が本職としている企業情報システムの世界で、コンピュータ=メディアインフラ論は、しっくり来ません。
メディアインフラ論は、どちらかというと個人、小グループ、マイコン、パソコンといった、比較的小さなものから、ボトムアップ的に価値形成されたものではないでしょうか。チープになるが故に登場する「(小さな)もの」それ自体を基底に置いて、そこからどんな価値が生まれるかを見つけだそうとしているのです。
今から、数十年前に、TK-80が出て、その後でパソコンが登場したこと自体が、それまで大型コンピュータしかなかった世界で見れば、(ひょっとしたら最初の)圧倒的なチープ革命であるのです。これぞ、ムーアの法則ということ。
逆に、大型コンピュータに端を発する、トップダウン路線もあるに違いなく、そこで語られるコンピュータの価値こそが、古典的かつ典型的なものと言えるのではないでしょうか。
私が、企業情報システムにおいて、今一つしっくり感じないのは、トップダウン路線を、今のところ考えてないからです。
次回は、そちらにスポットを当ててみたいと思います。
「パソコン創世記」は、青空文庫のフリーテキストとして提供されています。