とりあえず、具体的な話は抜きということで、話を進める。
ある男がいて、あるネタに対してブログに記事を書くとする。
同じネタに対して、アルファブロガーが記事を書く。
ある男は、アルファブロガーの記事の出来の良さ、知識の幅広さ、視点の明確さ、分析力の素晴らしさ…云々に、敬服し、自分の記事の至らなさに打ちのめされる。
いや、ある男のその反応には問題がある。
彼はアルファブロガー1人の記事だけを読んで、打ちのめされているからだ。
アルファブロガーとはいえ、視点の1つに過ぎない。そこに気づいていない。
本題ではないので、その話は続けない。
ともかく、そのある男は、自分の記事の至らなさに打ちのめされるのだが、だとすると、もっと自分の記事をボコボコにする別のブロガーが現れることに期待する。
ボコボコにされることで、自分が成長するだろうと、いささか楽観的ながら、殊勝な考えも持っているのだ。
しかし、そんなブロガーは現れないし、ボコボコにはされない。ただ、無視される。
読んではみたが、あまりに低レベルだから無視するのだろう。低レベルな記事をボコボコにしようと思うのは、余程、突拍子もない内容…つまりネタになるほどトンデモな時だけだ。
無視というのは妥当ではないかも知れない。
そもそも、その記事は気づかれていないのだ。
ほとんどのブロガーは忙しいのだから、アルファブロガーの記事を押し頂くように読んで、あとは自分のブログに手間をかけたら、それで精一杯なのだ。
故に、ボコボコにされたくとも、そうはいかない。
参加はしているのだが、受け入れられてはいないのだから。
受け入れてくれるのは、機械的なデータ収集装置だけだ。それも、巨大なデータ集合の、きっとどこかにある砂ほどの大きさもない、ちっぽけな、ちっぽけすぎる存在とされるだけである。
それが、言論の「新」自由主義といったら、そういうことなのかもしれない。
アテンション・エコノミーってそういうこと?(と、次につなげてみる、浅はかなその男がここにいる。)