みんなが仕事だけに価値観を置いているわけでもない

好きを貫くのもいい。好きを貫いている者を褒め讃えるのもいい。しかし好きを貫いている者であれば、自らの好きを貫くまえに、好きを貫いている誰かを褒める前に、好き嫌いを抜きにして仕事を片付けた方々をねぎらいたいものだ。

このエントリーを読んで、はてなブックマークでのコメントを見てみると、かなりの絶賛ぶりであることに驚いた。いや、驚いたというより、自分がこのエントリーを素直に受け取って絶賛しなかったことに驚いたというか…。はてなブックマークのみんなは、素直に受け取って絶賛できたんだ。それなのに自分は…というか。

なぜ、自分がこのエントリーを素直に受け取れなかったのか。それを考えると、これはもしや、ひがみなのではないかと思った。つまり、好きを貫けている人、少なくとも自分自身の仕事の現状にそこそこ満足していて、だから、そういう人はこのエントリーを素直に受け取れる。
そう考えると、たしかに自分は好きを貫いているとはいえない。好きを貫きたいと思っているが、現状はそうじゃない。いや、好きってなんだっけ?という状態かもしれない。

もうちょっと考えてみると、じゃあ、自分はなぜ仕事をしているのだろう。それは、生活のためだ。仕事をしないと自分自身を食わせていけない。独り者なので自分1人の食い扶持が稼げれば、それで良いのだが、母子家庭で一人っ子である自分は、離れた実家で暮らしている母親をいつか面倒を見ねばなるまい…とか、そういうことを思いつつ、まぁ、それは今のところ現実感を持って目の前に現れてはいないのだが、いつかはそうなるだろうと思って、とにかくカネは稼がにゃならんと思って、とりあえず仕事をしている。

とはいえ、私自身は、好きを貫きたいと思っている方なのであって、詰まるところ、自分のやる仕事というものに価値観を置いている。今やっている仕事というより、仕事という概念に価値観を置いている。それが今やっている仕事に持てていないから、上記のようにひがみに転化するのかもしれない。

では、私の母親や、ここ何年も会っていないが父親はどうだったのであろうか。仕事で好きを貫いていたのだろうか。子供心に、そして28歳になった今から考えてみても、どうもそうともいえないような気がする。といって、好きを貫いていないことに悲観していたのだろうか。両親の若い頃のことは知らないが、少なくとも私が物心をついてからは、それに悲観しているようには見えなかった。
おそらく、仕事とは違うものに価値観を置いていたのではないか。それは、家族とかではないのか。

そこまで考えたときに、まず「好きを貫く」ということは、「好きを貫きたい」という人に向かって、仕事というものに価値観を置いている人に向かって、語られていることではないのかと思った。
みんなが好きを貫こうと思っているわけではない。違う価値観の人もいるのだ。

だから、好きを貫いていると思っている人が、そうでない人に向かってことさらねぎらう必要はないのではないか、と私は思う。
逆に「ねぎらう」ということから感じられる、「好きを貫いている人」のちょっとした上から目線のようなものが気になって、私はこのエントリーを素直に受け取れなかったのではないかと思う。まぁ、←この一文こそが、仕事に価値観を置きたいと思っていて、好きを貫きたいと思っている私のひがみなのかもしれないけれど。

この記事を書いた人

井上 研一

株式会社ビビンコ代表取締役、ITエンジニア/経済産業省推進資格ITコーディネータ。AI・IoTに強いITコーディネータとして活動。2018年、株式会社ビビンコを北九州市に創業。IoTソリューションの開発・導入や、画像認識モデルを活用したアプリの開発などを行っている。近著に「使ってわかった AWSのAI」、「ワトソンで体感する人工知能」。日本全国でセミナー・研修講師としての登壇も多数。