dm。をはじめて3年以上が経つ。ここ数ヶ月は、はてなやらココログやらWordPressやらNucleusやらの間を行ったり来たりしていて、まったく落ち着いていなかったのだが、それも古巣のNucleusに戻って、おそらくは落ち着くことだろう。
しかし、それにしても。なぜ、私はこうやってブログにこだわっているのだろう。最近は書くことよりも、書くための場を作ることに懸命ではあったが、それでも、それがブログに関する何かであることは違いない。
今、電車の中にいて、アドエスに向かって、この文章を書き付けているから、引用とかトラックバックが出来ないのが残念だが(後でやる。DmBloggerがアドエスで動かないから仕方ない。)、小飼弾さんが翻訳した「ブロガーを鍛える21の方法」によると、ブロガーが改善されて、ブログが改善されるという。つまり、ブログというのは自分を写す鏡と言える。なるほど、私自身が迷いの塊のようにあっちふらふら、こっちふらふらしているから、ブログ自体もあっちふらふら、こっちふらふらするのだろう。
考えてみれば、迷っている最中は、物事そのものよりも、その周囲に気が取られるものである。私の最近のブログで言えば、前述のように、記事を書くことよりも記事を書く場所に気を取られていたのである。そのブロガーである私自身に引き直せば、やはり、目の前の仕事そっちのけで、いつか働く場所をどうしようかと考えている。それが、迷いそのものである。
迷いは時に残念な中間成果物を残したりする。それはそれとして、受け入れる必要がある。
あぁ、何の話だか分からなくなってしまった。あぁ、そうだ。私がなぜブログを書くのかだった。
それは、ここまでに述べたことから薄々感じられるように、それが一つのアイデンティティになっているからだ。ブログを書いていないと、ネットでの自らの居場所がなくなるようだし、リアルでも「ブログを書いている自分」という認識が自分の中に出来ている。
それほどだから、記事を書く場所で放浪しているということは、ブロガーとしてだけではなく、自分自身のアイデンティティが放浪しているということになる。たしかに、そういう自己認識はある。アイデンティティクライシスなのである。
ブログを書くということ、その場所を作るということは、自分のアイデンティティを、少なくとも一部分を構築しているに等しい。自分が自分をどう認識しているのか。それがアイデンティティだから、自分が自分のブログをどうデザインするかは、自分のアイデンティティをデザインしているのである。
結局、元のブログに戻ってきてしまった。これは、何を意味するのか。一つは、いい加減に面倒になってしまって、そろそろ書くことに注力したくなったというのがある。それは、リアルの自分に引き直せば、何を意味するのか。
ブログはブロガーが磨かれることによって磨かれる。
このdm。というブログがどうなるかによって、私がどうなったのかが透けて見えるだろう。まず、私自身を磨いていかなければならない。